神の子の使い魔
二度目の訪問(13)
どれくらい時間が経っただろう。長いような短いような、不思議な時間だった。モフ美の感覚を通して感じるこの匂いのせいだろうか、あんな話の後なのに、居心地いいと言えそうな時間だったのだと、その沈黙が破られた瞬間に気づいた。
その沈黙を破ったのは、モフ美だった。
今までずっとその存在を感じさせなかったモフ美が、黙ったまま『言った』。
(ふじさわ、だれかくるよ)
誰かって、誰? 俺は我に返った。ぴくりと体が反応して、いつの間にか、自分の意志でモフ美の体を動かせるようになっていたのにそれで気づいた。
(ふじさわの体のそばに、だれかくるよ。戻った方がいいよ)
戻った方が――
俺は焦った。
戻るってどうやんの。
「どうしたの」
みのりがたずね、俺は、寝台から飛び降りた。着地、失敗して転げた。ころりんと前転して、短い足で何とか立ち上がる。
「え、どうしたの?」
その声を聞きながら薄布をかき分けて走る。でもモフオンって足が遅い、というか、全体的にとろいらしい。かき分けた薄布が戻ってくる前にそこを通り抜けることができず、顔を絡めとられてつんのめり、全部の足をばたばたさせたところ完全に絡まった。
「もふー!」
苛立ちの声も完全にモフオンの声でしかない。
「だっ、大丈夫!?」
事態を知らないみのりは笑いをこらえて絡まった薄布を取ってくれた。礼も言えずにその手から飛び降りてまた走る。
(五人くるよ)モフ美が言った。(怖い人達だよ。ふじさわのことを怒ってる)
俺を――なんで、
(急いで、ふじさわ)
モフ美が俺の体を立ち上がらせたのが『見えた』。でもよろけた。脳震盪がまだ残ってるのか、それとも別の体だからだろうか。モフオンは運動神経があまり良く無さそうだからそのせいかも。
「どこいくの?」
必死で走っているのに、小走りのみのりにやすやすと追いつかれる。床からすくい上げられて、じたばた暴れるとみのりが言った。
「急いでるの? 扉開けないと外にでられないよ」
そういやそうだった。
「ちょっと待って」
モフ美を抱えたまま扉に向かう。そこに控えていた侍女さんが、あわてたように立ち上がった。
「ミノリ様、まだ外へ出られては……」
「あ、うん、ごめん。あたしは出ないよ。ちょっと扉、あけてくれる? モフオンが外に出たいんだって」
「まあ、モフオンが!」
彼女は目を丸くし、俺のいるあたりにちらりと視線を走らせた。「ちょっとそちらにお寄りくださいませ」とみのりに言い、みのりが言われたとおりに脇に寄ってから、扉に耳を当てる。俺はじりじりしながらそれを待った。ややして彼女は、鍵をそっと外す。
そうしながら言った。
「モフオン、いいですわねえ。至福の手触りだと言いますけれど……モフオンは異人の方にしか懐かないと言いますけれど、やはりわたくしが触れたら嫌がるでしょうかしら」
「さあ……でも今は急いでるみたいだから、どっちみち触らせてはくれないと思う」
「あ、失礼いたしました」
全くだよ!
扉が細く開いた瞬間、俺は再びみのりの手から飛び降りてそこを目指した。頭上で、みのりが呟いた。
「何かよっぽどのことがあったみたい、だなあ……?」
「モフオンでも急ぐことってありますのねえ、異人の方以外には関心さえ示さないそうですのに」
ようやく廊下に出た。大浴場は当然一階にあり、それはありがたかったが、でもこの体にはこの廊下が果てしなく長い。
「あのモフオンは……、あ!」
背後でしまりかけていた扉がばんと開いた。そこからみのりがかけだしてきた。「ミノリ様!」悲鳴じみた声が背後で聞こえたとき、みのりが俺に追いついて再びその手の中にすくい上げた。
「藤沢君に何か――」
そのとき、瞼の裏に、控え室の扉が開いたのが映る。そこから現れたのは、モフ美の言ったとおり、五人の怖い人達――顔を覆面で隠した、いかにも怖い人達だ。怪しいことこの上ない。彼らは抜き身の剣(やっぱ日本刀っぽい)を持っており、無言で、中に入ってくる。
(ふじさわ)
モフ美が、俺の体が後ずさる。みのりがモフ美を、俺を抱っこして離宮の裏口から駆け出した。道場までの距離はほんの三百メートルほどだ。無駄に広いんだよ畜生!
(ふじさわ、ごめん。むりにするよ)
ぐいっ、と、引っ張られた、気がした。
気づくと俺は俺の目で、怪しい五人を見ていた。ごめん、と言われた理由が分かった。壮絶なめまいと耳なりが襲いかかってくる。無理に体を入れ替えた後遺症なのだろう。一瞬視界が暗転して、意識しないうちにひざをついていた。
体格のいい奴らだった。ダルスさんにも負けないだろう。筋肉のつき方からして、毎日訓練してることがわかる。こいつらも言わばプロだ。あの暗黒ローブのときとは違って、五人がかりでかかってこられたら、体調が万全でも万一にも勝ち目はないだろう。
めまいと耳鳴りを振り払い、俺は顔を上げた。こんなところで死んでたまるか。
でも既に逃げ場もなかった。壁際にうずくまった俺を、五人が半円形に取り囲んでいた。誰も一言も言わない。警告も事情の説明もなしだ。みのりが来るまであと数分はかかるだろう。その間に全部片がついてしまうだろう。
「何の用だよ」
言ってみた。少しでも時間を稼がなければ。でも無駄のようだった。もし言葉が通じていても、返事をする気も無さそうだ。訓練された一糸乱れぬ動きで全員が一歩距離を詰め、包囲の輪がさらに狭まった。
ちゃきり、と誰かの刀が鳴った。
その時、目の前に茶色のもふもふが出現した。
(ふじさわ――!)
モフ美の体がまばゆい光を放った。襲撃者たちが初めて声を上げ、後ずさった。身を守るように掲げた剣の刀身が、土の塊のようにぼろりと崩れたのが見えた。
「――!」
「――、――!」
たぶん、退け、と言ったに違いない。リーダー格の男がそう言い、彼らはあっさり引いた。やはり一糸乱れぬ動きで整然と扉の外へ出て行く。足音すらほとんど聞こえなかった。
何事もなかったかのような沈黙が訪れた。
さっきと違うところと言えば、扉が開いてるってとこと、モフ美が俺の前に浮かんでるってことくらい。
あと。
俺は、ずるずると後ろのロッカーに体を預けた。
体中の力が吸い取られてしまったみたいに、動けなくなってしまったことくらいだった。
そのまま俺は眠ってしまったらしい。
眠る寸前に、俺の名を呼ぶ泣きそうなみのりの声を聞いた、気がする。