夢を見ていた。
これは夢だと頭のどこかで理解していた。それでも夢の中で味わわねばならない悲しみというのは一向に薄れない。もういい加減にしてくれと叫びたくても声が出ない。何度繰り返して見なければならないのだろう? いつ終わりが来るのだろう? 何度後悔しても、やり直したいと願っても、あの出来事は絶対に取り返すことなどできないというのに──
ピピピ……
灰色の世界のどこかで小鳥が鳴いた。夢が少し形を変えた。軽やかな小鳥の声に促されるように少しずつ意識が浮上していく。助かった、と彼は思った。あの最悪の結末を、今日は見なくても済みそうだ。
小鳥は断続的に何度か鳴くと、声をひそめた。
小鳥の声が途切れる前に、目が覚めてよかった。
深い安堵を感じながら、カルムは目を開いた。
しばらく、ここがどこだかわからなかった。初めての部屋で目を覚ますと、たいていこの感覚を味わうことになる。必死で記憶を手繰り寄せつつ、世界が再構築されるのを待った。体が金縛りにあったかのように動かない。机の上にコップがひとつ──昨日眠る前に飲んだ水がまだ残っている──そのコップから放射状に視界が再構築されていく。そう、思い出した。ここは高等学校で割り当てられた、自分の部屋だ。
部屋の中はすっかり明るくなっていた。ベッドのすぐ傍らの窓から、朝日が盛大になだれ込んできている。
──今日は試験だったな……しかも薬草学の。
ピピピ。
先ほどの小鳥の声が再び聞こえてきた。どうやらベッドの下から聞こえてきたようだ。電子音だな、とカルムは少し身構えた。目覚ましの音だろうか?
そろそろ起きたほうがいいかもしれない。よりによって初日が薬草学の試験とは。心の準備をするために顔を洗おう。
あの夢を見た後はいつも、自分で自分にはっきりと命令を出さないと、動き出せないような気がする。夢を見ている間中緊張状態にあるからか、体中がこわばっている。浴室に行って冷たい水でも浴びたほうがいいかもしれない。
体を起こそうと、右手をついたとたん、部屋のどこかでピーッ、という電子音がした。なにかきっぱりとした感じの、先ほどまでとは違うリズムの音。
……なんだ?
頭をもたげて部屋の中を見回す。と、掛け布団がいきなりカルムの体に巻きついた。そして……
「う、うわあああああっ!」
カルムは思わず飛び上がった。掛け布団が盛大に彼の体中をくすぐり出したのである。
「や、やめろおおっ」
ふとんはつぼを心得ているらしく、すさまじくくすぐったい。七転八倒してしっかり組み付いている布団から逃れようともがき、寝台から転げ落ちるとピタリと止まった。
心臓がドキドキ言っている。
心臓麻痺になったらどうしてくれるというのだ?
布団を裏返して調べてみたが、何の仕掛けも見出せない。いったいこれはなんの冗談なのだ。昔ここに通っていた兄もこのことは教えてくれなかった。隣の部屋で誰かが悲鳴をあげてるのが聞こえてきて、カルムはようやく少し落ち着いた。とりあえず、あの厭な夢の余韻はどこかに行ってしまったようだった。
これから、朝の電子音には十分気をつけることにしよう。
時計を見ると、なるほどそろそろ部屋を出なければならない時間になっている。もうちょっと穏便な目覚ましにしてくれてもよさそうなものだけどな、と考えながらカルムは着替えて部屋を出た。
部屋を出ると廊下にはしかめっ面をした学生たちが少しずつ出てきているところだった。大半のものが布団の攻撃を受けたらしい。カルムは無意識のうちにグスタフを探していた。あの綺麗な顔をした小さな男に見つからないように、と足早に歩を進める。
ひときわ背の高いグスタフはすぐに見つかった。黒々とした硬そうな髪は今日も元気にとがっている。
「──よぉ」
声をかけるとグスタフは振り向いた。表情は相変わらずのポーカーフェイスで、昨日とまったく変わらない。もしかしたら布団の洗礼を受けなかったのだろうか、と思ってカルムは少し悔しくなった。
受けていなかったら本当に悔しいので、自分も受けなかったような顔をして無難な話題を振ってみることにする。
「今日は薬草学の試験だな」
グスタフは軽くうなずいた。
「リスト教官か」
「自信は?」
カルムの問いに、グスタフは一瞬宙を睨んだ。
「薬草学はあまり得意じゃない」
簡潔な言い方にカルムは感心した。昨日も思ったけれど、正直なやつだと思う。昨日三人組に絡まれたばかりだというのに、進路を決めていないとか、薬草学は得意じゃないとか、絶好の悪口のネタになることを淡々と話している。
後ろのほうで誰かがくすくす笑いながらひそひそと囁き交わしている。タイミングが絶妙だったのでカルムは苛ついた。
「正直なやつだよな、お前って」
苛立ちを隠すためにわざと大きな声で言うと、グスタフはほんのわずかに口元を緩めた。
「嘘をついても仕方がない」
「……ま、そりゃそうだ」
カルムは自分の感情がほころぶのを感じた。卑小な我の張り合いとは無縁の立場にグスタフがいることが何だか嬉しかった。人の目や耳を気にせずに思ったことを話せる人間がいるというのは気分がいい。
「じゃあ得意科目は何だ?」
いきなり横から話し掛けられて、カルムは右隣を見た。いつのまにかジェムズが並んで歩いていた。カルムは少し驚いた──ちっとも気づかなかった。
「よぉジェムズ」驚きを隠して声をかける。
「おはよう、カルム、グスタフ。いきなり割り込んで悪かったな、──驚いたか?」
少し意外そうな顔をしている。カルムは照れ隠しにちょっと笑って見せ、グスタフのほうを向いた。
「んで、得意科目は?」
「地図作成かな」
「地図作成!」ジェムズがオーバーにギョッとした顔をして見せた。「おいおい、正気か?」
「嘘をついても仕方がない」
グスタフは先ほどと同じ言い方をした。ほんのわずかだが目元が緩んでいる。この会話をグスタフが楽しんでいることに気づいてカルムはなんだか嬉しくなった。
「それにしても地図作成、ねえ……あんなのが好きなんて変わってるよな」
「変わってる?」
「そうだよ、あんな地道で根気の要る作業。俺は魔法道具のほうがいいな、わかりやすくて」
「わかりやすい?」ジェムズがあきれた顔をした。「そっちも驚きだな、あんなややこしいものはないと思うけどね」
うんうん、と横でグスタフがうなずいている。地図作成よりはマシだと思うぞというと、グスタフはそうかな? と首をかしげた。
「地図は目の前にあるものを描けばいい。魔法道具の仕組みは目に見えない」
「俺に言わせればどっちもどっちだけどな」ジェムズはなにやら感心した口調である。
「それじゃジェムズは何が得意なんだよ?」
ジェムズは待ってましたとばかりにふふんと鼻を鳴らした。「そりゃ全般さ。俺は何でもできる男なんでね」
「ははは良く言うよ」
機嫌よく話しているうちに表に出た。
空は今日もよく晴れていた。そういえば首都の春は毎日こんな上天気だった。カルムは唐突に、自分がずいぶん長い間首都を離れていたことを思い出した。あまりいい思い出はないが、ここはやはり故郷なのである。
──なんだかずいぶん感傷的になってるな。
カルムは自分を少し笑った。
ともあれ、こんな気分で首都の空を見上げたのは初めてかもしれない。
* * *
薬草学研究室の中は蒸し暑かった。いたるところで鍋がぐつぐつと音を立てている。こぽこぽ、シューシューという音がひっきりなしに聞こえていて落ち着かない。
他にもさまざまな器具があり、それらのほとんどは中等学校で習ったものだったが、実物を見るのは初めてのものが多い。新入生が物珍しそうにうろうろしていると、ほっそりした体つきの若い男が姿を見せた。
カルムは一瞬身構えた。──あいつだ。
残っているだろうとは思っていたが、実際目の前にすると緊張する。
「ようこそ、新入生諸君。わたしはここの研究室の指導官、ライティグです」
ライティグは相変わらずの、人の良さそうな笑みを見せた。十年経ってもその笑顔はまったく変わっていない。違うのはこちらの背が伸びたために、体格が変わって見えるということくらいだ。カルムは周りの者にわからないようにひとつ息を吸った。大丈夫大丈夫、と自分の心臓に言い聞かせる。少なくとも表面上は、ライティグの前では、もうわだかまりなど持っていないことを見せなければならない。
「わからないことがあったら何でも聞いてください」
そこで新入生を見回したが、グスタフの陰に隠れたカルムには気がつかなかったようだ。言葉を継ぐ。
「では、こちらへどうぞ」
先に立って歩き出す。新入生はぞろぞろとついて行く。カルムはそっと息を吐いた。心の準備はしてきたはずなのに、情けない。
グスタフがさりげなく近づいてきて、独り言をつぶやくような口調で言った。
「──どうした?」
「……えっ?」カルムはギョッとした。「何が?」
「あの人を知っているのか?」
なんて鋭いやつだろう。カルムは何事もなかったように、適当な間を計ってから答えた。
「……兄貴の友達だよ」心臓はいまいましいほどに波打っている。
「そうか……」
グスタフはそれ以上聞いてこなかった。カルムは心を引き締めた。グスタフにわかってしまうほどの動揺を表に出していたなんて、迂闊だった。こんなことでは内心をライティグに見透かされてしまう。
俺は別の目的があって戻ってきた。ライティグにかかずらっている暇なんかない。
だからもう何のこだわりも持っていないことを見せなければならない、とカルムは心臓に言い聞かせる。心臓は徐々にいうことを聞いた。見る間に平常の鼓動を取り戻していく。コントロールが巧くいったことで少し自信を取り戻した。グスタフは少々勘が鋭いだけだ。他の人間に俺の動揺がわかってたまるものか。
こまごまとした器具の間を慎重に抜けていくと、円形に開けた場所に出た。思ったよりも広々としている。ずんぐり太ったこの部屋の主が、みんなを迎えるために立ち上がった。
「おはよう諸君」リスト教官は大声で言った。
おはようございます、と口々に挨拶が返るのを待ってから、リスト教官は両手を広げてにっこりした。
「昨日は諸君と食事ができてとても楽しかったよ。──さて、早速だが試験をはじめる。今日は諸君に薬の腕を見せてもらおう。この建物の裏に薬草園がある。そこで材料を採取し、ここに戻ってきて薬を作ってもらう。期限は今日中。今からこのライティグ君が適当に紙を配る。もらった用紙は取り替えないように。いいかね?」
新入生がそれぞれうなずくのを見て、ライティグが学生の間を廻って用紙を配り始めた。用紙を受け取った学生の間からため息が漏れ始めるのを、リスト教官はにやにやして眺めている。
ライティグがこちらに近づいて来る。カルムは来るべき瞬間に備えて身構えた。
ライティグが顔を上げた。
「!」
ライティグの顔色が変わった。驚愕の表情。目を丸くしている。彼の目に敵意が見られなかったことにカルムはほっとした。こちらの心臓もちゃんと落ち着いている。
用紙をもらおうと手を出している学生には目もくれずに、ライティグはしばらく硬直していた。
「……ライティグ指導官?」
怪訝そうな学生の声に促されて、ライティグはやっと我に返った。「あ……ああ」
その学生に紙を渡し、彼はこちらに向き直った。本物かどうかを確かめるかのようにまじまじと見つめた後、ややあって微笑んだ。今度は……安堵の表情。
「カルム。……久しぶりだね」
「はい」
うなずく。自分がにこやかな顔をしているのを意識する。よしよし、うまくやっているぞ。
「君が高等学校へ進む気になってくれて嬉しいよ。……三年も行方不明で、何をしていたんだ?」
「ちょっと盗賊を」
「盗賊?」
周りが一瞬ざわめいた。ポルトが小ばかにしたように、隣に立つベルナと目を見交わしたのが見えた。冗談だと思っているのだろう。ライティグもにっこりした。彼も冗談だと思ったようだ。それはそうだろう、と自分でも思う。卑しくもリーリエンクローン家の御曹司が盗賊などに身をやつすわけがないと、普通の人なら思うだろう。
リスト教官は苦笑した。
「思い出話は後にしたまえ」
「はい」
ライティグが再び紙を配り始める。カルムはグスタフを見たが、やっぱり完璧なポーカーフェイスで、どう思ったのかを知る手がかりはまったくなかった。