魔女の変貌

空島と陥落(1)

第四章 空島と陥落

 グレゴリーのどこが人嫌いなのか、マリアラにはさっぱりわからなかった。
 彼は笑顔でマリアラとラセミスタを出迎え、魔力の結晶を空島の下側にはめ込む指示も的確で丁寧だった。マリアラがたっぷり持って行ったお茶に大喜びしてくれ、ふたりをお茶に招いてくれて、いろいろなことを話題にしては楽しませてくれた。ミランダの相棒の話に興味を示し、自分も出来る限り協力すると請け合った。空島に住む猫たちのことも一匹一匹丁寧に紹介してくれた。予想外の歓待ぶりに、ラセミスタも驚いたのだろう、グレゴリーに言った。
「今日はずいぶん機嫌がいいね、グレゴリー」
「はは、ラスの友人にまで気むずかしい顔を見せる気はないよ。私にだってその程度の矜恃はあるんだ、それに、マリアラとは初対面というわけじゃないからね」
 グレゴリーは本当に優しい笑みをラセミスタに向ける、とマリアラは思う。
 その笑顔で、グレゴリーは彼女に言った。
「同室の子と仲良くなって、良かったじゃないか」
「……うん」
 ラセミスタは照れくさそうに笑う。グレゴリーも目尻を下げる。グレゴリーは本当に、ラセミスタのことを可愛がっているようだ、と思って、マリアラも嬉しくなった。
 と、ラセミスタが少し言葉の色を変えた。
「でね、グレゴリー。マリアラはこないだあたしたちが行ってた場所の人たちについて調べているの」
「……」
 グレゴリーはじっとラセミスタを見、それから、マリアラに視線を移した。
「ここでは〈アスタ〉に聞かれる心配はないから大丈夫だよ。……そうかね、マリアラ。で、首尾はどうかな?」
 この会話は何だろう。マリアラは戸惑った。
 どうしてグレゴリーが、こんな話を聞きたがるのだろう。どうしてラセミスタはわざわざそんなことを言い出したのだろうか。
 そう言えば昨日の夜、ラセミスタは、まずマリアラにエルギンたちのことを調べているかどうかを訊ねた。その会話のすぐ後に、空島に荷物を運ぶ話を持ち出した。マリアラがエルギンたちについて調べていなければ、空島行きの話も、もしかしたらなかったのかもしれない。
 どうしてだろう、と、疑問に思いながら、マリアラは首を振った。
「全然文献がないんです。仕方ないことだと思うんですけど……でも……」
「その調査方法だが」グレゴリーは身を乗り出した。「〈アスタ〉の手を借りたかね?」
「え、いいえ」
「なぜ?」
 マリアラはうつむいた。自分がひどく愚かな子どもになった気がした。そう、〈アスタ〉なら、エルギンたちの消息が載っている文献を、すぐに教えてくれるはずなのに。
「……何となく……」
 ――フェルドが目を覚ましたことを、一日たってもわたしに教えてくれなかったからだ。
 理由はわかっていたが、それをグレゴリーに言うのははばかられた。自分が聞き分けのない、単なる子どものように振る舞っていることを自覚していたからだ。グレゴリーはしかし、ふむ、と頷いた。
「それは賢明だった」
「……賢明?」
「今後もそれを調べ続けるなら、〈アスタ〉の手は出来る限り借りない方がいいね。借りても無意味だし、カルロスの神経を逆なでするからな。君は歴史学が得意だとラスに聞いたよ、その君が数日かかっても文献を探し出せないとするなら、君が調べているのは暗黒期の前だということになる。じゃあ手がかりをあげよう」
 グレゴリーは立ち上がり、本棚の方へ行った。マリアラはラセミスタを見、ラセミスタは、少し首をすくめた。
「えっと……ほら、こないだ、帰ってきたときに、フェルドとマリアラが〈アスタ〉の部屋を先に出て、あたし、グレゴリーに言われてちょっと残ったでしょう? あの時にいわれていたの。もしマリアラが彼らについて調べるようなら、空島につれてこいって」
「……どうして?」
「よくわかんない。あ……でもね、運び手がいなくて困ってたのは本当なんだよ?」
「お待たせ」
 戻ってきたグレゴリーは、一枚の古びた地図を持っていた。
 机の上に広げられたそれは、とても古い、古い古いもののようだった。紙はぼろぼろだが、その精密さにマリアラは目を見張った。たぶんアナカルシスの一地方だろう。複雑な陰影を書き込まれたそれは、おそらく非常に凝り性の、芸術家肌の人間が描いたものだと思わせる。
「こういうの……見たことあります。教科書で」
「だろうね。暗黒期の前にはこれほど精緻な地図を描く人間がいたんだ」
「デクター=カーンですね」
 国宝だ。どうしてこんなものを持っているのだろうとマリアラは疑問を抱いた。
【学校ビル】の博物館に鎮座しているべき代物だ。何しろ二千年は前のものなのだから。
 おまけにこの無造作な扱いは何だろう。ガラス板で丁重に挟まれて、湿度も温度も管理された場所に保管されているべきものなのに。
「そのとおり」グレゴリーは静かに微笑んだ。「マリアラ、美味しいお茶のお礼に、この地図をあげよう」
「……………………!?」
 あんまり驚いて、言葉がすぐに出なかった。マリアラはグレゴリーをまじまじと見つめた。
「……っ、え!? でも、だっ、だって、これっ」
「ああ、これは本物だが、別段それほど価値のあるものじゃないから心配はいらないよ。アナカルシスで売れば一年は遊んで暮らせるだろうが」
「そ……そんな程度?」
 一生遊んで暮らせるならまだわかるのに。
 けれど一年遊んで暮らせる価値のものをあっさりくれるというのもどうなのか。
 グレゴリーは頷いた。
「デクター=カーンは量を描く人だった。行くべきところへ行けば、こうしたものはわんさか残っている。ああ、遠慮はいらないんだよ。私もこれひとつしか持ってないわけじゃないからね。大っぴらに飾るわけにもいかないし、見せるような人もそうそういないし、持っていても仕方のないものなんだ。さて、ここで問題をひとつ」
 揶揄するように、彼は言った。
「これは何年前のものでしょう」
「……」マリアラはしばらく考えた。「……デクター=カーンのものなら、暗黒期の前じゃないんですか」
 でも確かに、二千年前の紙が、こうも無造作な扱いを受けて、果たして原形を留めているものだろうか。
 グレゴリーは微笑んだ。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。デクター=カーンは、それが本人かどうかは置いておくとして、少なくともデクター=カーンと名乗る、これほどの地図を描く腕を持った人間は、少なくとも五十年前に一度、エスメラルダに姿を見せているんだよ。これは確かな情報なんだ。〈アスタ〉の記録にも残っている」
 冗談を言っているのかと思った。
 けれどグレゴリーは真剣だった。
「……ほんとに? わたし、そんなの知らないです……習わなかった」
「歴史学特一級免許を持っている君でさえこの事実を知らない。それはなぜだろう」
「なぜ……」
「デクター=カーンという名を持つ人間が暗黒期の前に生まれたということはよく知られている。それがたったの五十年前にエスメラルダに姿を見せた。同じ名を、彼の弟子たちが連綿と受け継いできたのか、それとも――本当に本人なのか」
「そんな馬鹿な……」
「馬鹿な、とは、私は思わないね。絶対にあり得ないと言うことが実証できたわけじゃないからな。五十年前に生きていたなら、もしかしたら、今も生きているかも知れない。暗黒期の前について探ろうとするなら、……彼が全てを知っているだろうね」

    *

 ラセミスタは、グレゴリーが話す言葉を、黙ってじっと聞いていた。
 グレゴリーは、マリアラに何をさせようとしているのだろう。
 あの時グレゴリーはラセミスタに言った。主の沈黙した、〈アスタ〉の部屋で。真夜中に、静かに。
『マリアラはラクエルで……歴史学が得意だと聞いた。更に君という友人を持っている。いいかいラス、もしもマリアラが、自分の意志で……暗黒期の前について調べようとするなら』
 マリアラならやるだろうと、ラセミスタはあの時も思った。エルギンやニーナという子どもたちにとても愛着を持ったようだし、歴史学の資格も持っている。ラセミスタやフェルドは歴史学が苦手だから、簡単に調べられはしないだろうが、マリアラなら、少なくとも彼らがどうなったのか、ちゃんとエルギンが王になることが出来たのかどうか、くらいは、調べるだろう。
『ひどく危険なことだ。ラクエルも暗黒期も、カルロスの神経を逆なでするのだからね。だがそれでもマリアラが先へ進もうとするのなら、そしてラス、君がマリアラを助けたいと思うのなら、手を貸してやりなさい』
『危険……って……?』
 グレゴリーはラセミスタをじっと見て、にっこりと笑った。
『全ての鍵は〈アスタ〉が握っている。君は幸いリズエルだ。〈アスタ〉の中に全てが眠っているんだ、ラス、君には、その宝物を掘り起こす力がある。友人の手助けをできる能力が自分にあるということは幸せなことだよ。自分の能力を使いたい友人が存在するということは、もっと、ずっと、幸せなことだ』
 ――あたしは。
 マリアラを見ながら考えた。
 ――あたしは……マリアラを助けてあげたい。
 仲良くなってから、まだ一月も経っていないのに、そんなことを思うのは馬鹿げているのだろう。……でも。
 ラセミスタは、自分が心底からそれを望んでいることを既に知っていた。
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