魔女の別離
第三章(4)
午後一時十五分 〈彼女〉
マリアラがあの落とし穴に落ちた瞬間を、〈彼女〉は見ていた。今度もまた、ただ見ているしかできなかった。やめさせることはもちろん、警告することも、悲鳴を上げることすら出来なかった。カルロスはまだジェイドの姿のままで、執務机を回って落とし穴の方へやってきた。継ぎ目がわからないほど完全に閉じた落とし穴を見て、眉を下げる。
「……足枷がなくなって、残念だけどな」
――それ以外のことは、考えないのか。
憎しみが胸に湧いた。本当にこの人は、全く変わってしまったのだと思う。
けれどカルロスは知らないのだと考えて、自分を取り戻そうとした。カルロスは、自分をその地位から追い落とそうとする人たちが、今まさにこちらに向かっているということを知らない。もうすぐ、もうすぐだ。もうすぐ、この男はエルヴェントラじゃなくなる。もうこの男に、従わなくても良くなる。マリアラもなんとかして、助けられるかもしれない。
カルロスは当然、そんな〈彼女〉の感情になど気づきもせずに、緩やかに元の姿に戻りながら、全く変わらない声音で独り言を続けた。
「さてどうするかな……【炎の闇】は……〈アスタ〉?」
急に呼びかけられて、返事が出来なかった。助け船を出すように〈アスタ〉が戻ってきた。〈彼女〉はまだ、平然と受け答えできる状態ではなかったからだ。あの時のことを思い出して縮こまってしまった〈彼女〉をいたわるように、〈アスタ〉が答えた。
『……はい、エルヴェントラ』
「グールドという狩人は、どうなった?」
『現在警備隊本部に拘束中です」
「フェルドは?」
『今は医局にいます』
カルロスは、ホッとしたようにため息をついた。
「良かった。戻ったか。……警備隊長は」
〈彼女〉は愕然とした。
――どうして今それを聞く!
〈彼女〉は叫んだ。どうして今このタイミングでそれを聞くのだ! もういいじゃないか! お前はもう充分好き勝手やったじゃないか! あたしのだいじなあの人を踏みにじって、ルクルスを隔離して、知りすぎた人を殺していろんな人に足枷をはめて裏切って騙して陥れてマリアラをあの魔女にとっては地獄に等しい落とし穴に落としたじゃないか! もう充分じゃないかあ……っ!!
その叫び声は、〈アスタ〉だけが聞いた。いつものとおりに。
『こちらに向かっています』
従順に〈アスタ〉は答える。当然だ。〈アスタ〉も〈彼女〉も、エルヴェントラの命令には逆らえない。その答えに、カルロスは愕いた。まだジェイドの面影が残る姿で、〈アスタ〉のスクリーンを見上げた。
「……なんだって?」
『こちらに向かっています、エルヴェントラ』
「……」カルロスは一瞬だけ考えた。「ガストンは?」
『一緒です』
「人数は? 内訳も」
『十四人です。ギュンター警備隊長、ガストン指導官、保護局員のベネット、ルタ、リュー、エスタル……』
カルロスの決断は素早かった。いつもどおり。
昨日からずっと〈彼女〉が注意深く隠してきた、水面下で進んでいたギュンター警備隊長たちの計画に、勘づいてしまった。
「今どこに」
『三階のエレベーター前です。……乗り込みました』
カルロスの外見が変わった。今消えかけていたジェイドの面影をみるみるうちに取り戻していく。その間にも机の引き出しから薄く硬い書類鞄を取りだして小指大に縮め、ポケットに入れ、昨日から大事に何度も耳を当てていた通信機器も、同じように縮めて入れる。そしてカルロスは言った。
「ナイジェル副校長は、今レイキアに出張中だったね」
『はい』
「ナイジェル副校長の顔写真とプロフィールと声のデータと居場所と現在の状況を僕の端末に送っておいてくれ。あとそれから、レイキアへの鉄道の時刻表も。……しばらく留守にする。後は頼むよ」
『はい』
「ギュンターたちは?」
『七階に着きました、エルヴェントラ』
カルロスは、扉を開いた。ジェイドの姿で。
廊下を、ギュンターたちの一行が足早に歩いてくるのが〈アスタ〉のカメラに写っていた。カルロスが扉を閉めると、保護局員のひとりが声を上げた。
「待て! そこで何をしている!?」
「イーレンタールを捜しに来たんです」カルロスは平然と答えた。「ヴィレスタの治療をしてもらおうと思って……どこにもいないんですよね。この部屋に良く呼ばれてるって、聞いたから、念のため、と思ったんですが。ここにもいませんでした」
「君は?」
ギュンターが静かに訊ねて、カルロスは頭を下げた。
「ジェイド=ラクエル・マヌエルです。ギュンター警備隊長? ……すごいや、本物だ」
「校長は?」
続いた質問に、カルロスは首を振った。
「いませんでした。医局の方に行ってるんじゃないんですか?」
ギュンターとガストンが目を見交わした。一行の一番後ろで、リン=アリエノールが緊張しているのが見えた。ギュンターとガストンは低い声で一言ずつ言葉を交わした。「どうする?」「待つか」カルロスがまだ立っていると、保護局員のひとりが言った。
「愕かせて悪かったな。……行っていいですよ」
カルロスの外見に対する言葉遣いを、途中でマヌエルに対するものに改めて、保護局員はカルロスを放免した。カルロスの演技は完璧だった。ギュンターとガストンという有名人ふたりともう少し関わっていたいけれど、邪魔をしては悪いだろうかというように、渋々遠ざかっていく。
校長の執務室の前で、ギュンターが呟いた。
「……勘づかれたかな?」
「かもしれない。捕らえられたら最高だったんだが……まあ亡命されても二度と戻らなきゃ成功といえるんじゃないか。無駄だと思うが【国境】に、校長を通さないように連絡しよう」
「中で少し待ちましょうか」とベネットが言って、
「いや……家宅捜索を始めてもいいだろう」
ギュンターが答えて扉を開ける。彼らにマリアラの居場所を教えるにはどうすればいいのだろう。そして今の若者こそが校長だったのだと教えるには、どうすればいいのだろう。〈彼女〉は胸が痛むほどにそのふたつを望みながら、それが自分にできないことも、とっくの昔に思い知っていた。
午後三時 ラセミスタ
ぐいっと頭を後ろに押されて初めて、ラセミスタは我に返った。瞬きをすると、正面にイーレンタールの顔が見える。
ラセミスタは我ながら間抜けな声をあげた。
「……お?」
「お、じゃねえよ」
ラセミスタは辺りを見まわした。イーレンタールしかいない。
「……あれ、マリアラ、は?」
「それはこっちのせりふだろうよ……」
言って、イーレンタールは、まだ手を離さずにじろじろとラセミスタを見下ろしている。立っているイーレンタールの顔が真っすぐ見えるほどの角度に額を押されているのでさすがに不快だ。ラセミスタは頭を振ってイーレンタールの手を額から外し、その拍子に見えた時計が三時を指しているのに気づいて驚いた。ずいぶん長いこと没頭していたらしい。そして、マリアラはずいぶん長いこと不在だったらしかった。甘いものの山も部屋の様子も、先ほどと全く変わらなかった。ただ窓の外の光が黄昏を含み始めていることと、マリアラがいないことを除いては。
「マリアラ、どこいったんだ?」
イーレンタールがそう言って、ラセミスタは記憶を探った。
「えっと……確か……医局。そう、医局だ。医局に行ってくるって言ってた」
「医局う? 俺今そっちから来たんだけどな……まあいいや。マリアラがいないんならここでもいいだろ」
ラセミスタはそして、今さら驚いた。ラセミスタとマリアラのふたり部屋の中にイーレンタールがいる。こんなことは初めてだ。
「……どしたの、イーレン? なんの……あ、ヴィヴィ? ヴィヴィになにか……」
言いかけて、そんな用事のはずはないとすぐに思った。そうだったら〈アスタ〉を通じて連絡するはずだ。
「いや違う。ヴィヴィの傷の修復は終わったけど、体液のストックが届かないと後はどうしようもないんで、眠らせてあるよ」
「……そか。ありがと」
「お前は結構元気そうだな」
「うん」
頷いて、ラセミスタはいぶかしく思った。イーレンタールは今、なんだか怒っているように見える。座って、と椅子を示したがイーレンタールは座らなかった。立ったまま、威圧するようにラセミスタを見ている。
「……イーレン?」
「お前さ」イーレンタールはようやく口を開いた。「やるならもっと巧くやれよ」
「……何を?」
「何考えてんだ。自分が何やってるのかわかってるのか? お前がやってるのは、いわば国家機密を不正規の手段で探り出すってことだぞ。スパイ行為だ。自分の部屋の入力端子使ってもぐり込むバカがいるか」
「あ……」
ラセミスタはちらりと自分の端末を見た。イーレンタールが舌打ちをする。
「どこで嗅ぎつけたんだかしらねえけど。やるんなら相応の覚悟をしろ。俺に見つからないくらいにまで精進してからやれよ。一生無理だけどなお前には」
「む」
ついむっとすると、イーレンタールが珍しく吐き捨てた。
「この考えなし」
「だって」
「だってじゃねえよ! やるなら俺に迷惑かけんな! 〈アスタ〉ん中ごそごそ探り回って情報集めようとしてるバカの存在に、俺が気づかねえわけねえだろうが!? 俺にお前を売らせる気か!」
「売る――」ラセミスタは座り直した。「どういう、こと」
「俺が受けてる命令はひとつだけだ。それだけ守ればあとは好きにしてていいってさ。……お前みたいなのが〈アスタ〉ん中ごそごそ探ってることに気づいてそれが誰か報告しろって、それだけ」
「……校長、に……?」
ラセミスタは喘いだ。
ショックだった。
ラセミスタはマリアラに、フェルドを兄だと言ったが、イーレンタールも同じようなものだった。グレゴリーがラセミスタの『父』であり、ダニエルが長兄でイーレンタールが次兄でフェルドがすぐ年上の兄、というような感覚で、ここまでずっとやってきたのだ。
――それが。
「い、イーレン。校長が何、してるか、知ってる、んだよ、ね?」
「阿呆」イーレンタールは顔をしかめた。「それはこっちの台詞だ。――まあ確かに……確かにさ、あの人は一体どうしちまったんだろって、こっちに来てから思ったよ。昔はあんなじゃなかった。ほんとにすげえ人だったんだ。それが……でも」黒い瞳が烈しい色を宿した。「でも……でも、それでもな! エスメラルダが今表面上だけでも発展して、大多数の人間にとっては楽園って言えそうなほど住み心地がいいのはあの人のお陰なんだぞ!」
「でも、ルクルスは」
「お前はルクルスじゃねえだろう!」泣き出しそうな声だった。「――ああそうだ、ルクルスの現状はひどいもんだよ。でも……今のルクルスが受けてる待遇なんざ、二百年前にマヌエルと一般人が受けてた待遇に比べりゃ天国みてえなもんなんだ! なんにもしらねえで今までのほほんと育ってきたくせに、偉そうなこと言ってんじゃねえよ!」
まるで自分は二百年前のことを骨身に染みて知っているというような言い方だった。
ラセミスタは食い入るようにイーレンタールを見つめた。言葉と声からだけではなく、全身から、表情や仕草の端々から、情報を得ようとして。
「どんな……」
「言いたくねえ。思い出したくねえ。でも……俺はな、ラス。二百年前に戻るくれえなら死んだ方がずっとマシだ。この表面上だけでも平和な国で、好きな魔法道具の研究だけしてられる生活を投げ出すことだけは死んでもしねえぞ。お前は俺の妹みたいなもんだから」声がひどく、冷たくなった。「だから先に忠告に来たんだ。次はない。俺はお前より自分の方が可愛いから……これ以上やるなら売るからな。覚えとけ」
「……イーレン」
「売りたくなんかねえんだよ、ほんとに」
ひょろ長い腕が伸びて、ラセミスタの頬をそっとかすめた。
「……今日思い知ったろ。俺たちみたいなのはエスメラルダから追い出されたら生きていけねえよ。狩人にでもとっつかまってみろよ……この先の人生真っ暗だ。な?」
「……」
「……頼むよ」
イーレンタールは呻いた。
「頼むよ……ラス」
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