魔女の別離
第三章(3)
*
イェイラは今度は抵抗しなかった。右巻きのイリエルが彼女のとなりにぴたりと張り付いて、風で彼女を封じ込んでも、周囲の風に働きかけすらしなかった。コインと箒を出すようにと言われて、素直に出した。そしてマリアラは目の前で、箒が持ち主以外の人から、動力の源を取り上げられる場面を見た。イェイラの箒も抵抗しなかった。魔力の結晶を取り上げられて、きゅう、と音を立てて沈黙した。
悄然としたイェイラが、屋上の出入り口の方へ連行されて行く。その全てを、マリアラは黙ってじっと見ていた。
――わたしは取り返しのつかないことをしたのかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
――唯一無二であるらしい『エルカテルミナ』を、校長先生に、今度こそ本当に、捕まえさせてしまったのかもしれない。
――それがどんなに罪深いことか……
マリアラは身震いをした。……寒い。
屋上の端に、黄金色のコインがひとつ、落ちていた。拾い上げると、スーザン=レイエル・マヌエルと書いてある。そうか、と頭のどこかで考えた。イェイラはグールドをあの談話スペースから引っ張り出す前に、ここにコインを置いて行ったのだろう。フェルドが自分を追いかけて来ようと来るまいと、いつでも戻って来られるように。
「マリアラ」ジェイドがおずおずと言った。「……あの」
振り返るとジェイドはマリアラを見下ろして、気弱な、気遣わしげな顔を見せていた。人の良さそうな人だと、思った。ジェイドに初めから親近感を抱いたのは、たぶんダニエルから聞いていたからだろう。ジェイドは照れ臭そうに頬を染めて、頭をかいた。
「あの、さっきは……」
「ああ。……ごめんね、えっと、ジェイド?」
「そう」
「わたしはマリアラ。……さっきはごめんね。【魔女ビル】の入り口で、止めてくれたのに」
「いや」
「それから今も」マリアラは微笑んで、哀しくなった。「わたしの味方をしてくれて、ありがと」
「……いや、だってさ。イェイラ、変だったもんね。君を傷つけようとしてたし。あの狩人が君とミランダを殺そうとしたのだって、イェイラが頼んだせいなんだろ」
「たぶん」
「……あの」ジェイドは周囲を見回して、声を低めた。「エルカテルミナって、……なに?」
マリアラは首を振った。
「……よくわかんない。なんか、責務、というものがあるみたい。イェイラがわたしを殺そうとしたのも、それを、責務を、邪魔する立場だからなんだって」
「それにフェルドが、どう関わるの?」
マリアラはため息をついた。
「フェルドがイェイラの片割れだったんだって。フェルドがあんなに検査ばっかりされてるのもそれが理由みたい。……イェイラはわたしが、邪魔だったんだよ」
ジェイドの人の良さそうな顔が困惑にしかめられる。イェイラの行為を怪訝に思っているその様子に、マリアラは自分が甘えていることに気づいた。誰か、全く関係ない立場の傍観者に、イェイラが間違っていて、マリアラが正しいのだと、言って欲しがっていることに気づいた。ひとつ頭を振って、話を変えた。
「……ごめんね、ジェイド。なんか巻き込んじゃったよね。えっと……イェイラと一緒に行った方がいいのかな? 今からほら、どうしてこんなことしたのかとか、保護局の人たちに尋問とか、されるんじゃないのかな。わたしもきっと、話を聞かれるよね」
屋上の出入り口で、保護局員が待っているのはそれが理由だろう。マリアラがそちらに歩きだすとジェイドもついて来た。保護局員がマリアラの視線をとらえて、安心させるように微笑んで見せた。柔らかな声が聞こえる。
「マリアラ=ラクエル・マヌエル? なんだか災難だったね。ミランダはグールドがどうして自分を呼んだのか、全然知らないと言ってたよ」
とばっちりを受けたのだと思ってくれているらしい。保護局員はそれから、やや気の毒そうに言った。
「警備隊長が君の話も聞きたがると思う」
「それって今すぐですか?」
ジェイドが口を挟んで、人の良さそうな保護局員は笑った。
「いや、そんなに急がなくてもいいと思うよ。ここは寒かったし、昼食もまだだろ? 少しゆっくりしてからおいでよ、呼ばれたら昼食どころじゃないだろうし」
ジェイドがほっとしたように微笑んでくれて、マリアラも思わず微笑んだ。本当に、ダニエルの言ったとおり、『いい奴』なのだとマリアラは考えた。
「じゃあ部屋で待っててもいいですか。警備隊長の準備ができたら、呼んでいただければ行きますから」
マリアラの言葉に保護局員はうなずいて、了解、と言った。それから晴れ晴れと笑った。
「グールドも捕まったよ。もうすぐ警備隊詰め所で尋問が始まるだろう。もう大丈夫、全然危険なことなんかないからね。ラセミスタ、大丈夫かな?」
「あ、はい。さっきは結構元気そうでした。あの、毒抜きの方はどうですか」
「悪い、それは俺は分からない。〈アスタ〉に聞いてごらん」
「そうします。……あ、これ。あっちに落ちていました。スーザンのコインです。警備隊長に、渡してもらえますか」
「わかった」
話しながら【魔女ビル】の中に入って、三人でゆっくり歩いて行った。非現実的な出来事が立て続けに起こったから、まだ昼過ぎだということに気づいて驚いた。空腹は全く感じないが、体が冷えきっている。部屋に戻って暖かいココアでも頼もう、と思う。保護局員が、じゃあ後で呼ぶよ、と言いながらエレベーターの方へ向かう。マリアラはうなずいて、自分は階段を降り始めた。ジェイドは一緒に来てくれるらしい。心配してくれているのだろう。
(この人、ダスティンとは全然違うね)
首もとに戻ったミフが囁いてきて、マリアラはうん、と頷いた。
あの時、【夜】に向けて【穴】が開いたあと。ダスティンもマリアラを送ろうとした。あの時には嫌悪しか感じなかったが、でも今、ジェイドに対しては、ありがたいと思う気持ちが強かった。たぶんさっきのジェイドは、マリアラの判断や行動を、邪魔する気がなかったからだと考えた。イェイラがもしもマリアラを攻撃してきたら手助けしてくれるつもりがあっただけで、マリアラが頼んでもいないのにイェイラを排除しようとしたり、しなかったからだ。
――本当にいい人なんだ、この人。
(でもさ)ミフが笑った。(右巻きってみんな過保護だね。あたしがちゃんといるのにさ)
マリアラも微笑んだ。本当だ。
と、ジェイドが言った。
「エルカテルミナについてもっと知りたい?」
驚いて振り返ると、ジェイドはじっとマリアラをみていた。
「フェルドがなんかそれに関係するなら、この先もいろいろあるかも知れないだろ」
「あ――」ようやく声が出た。「それはそう、だけど、でも……ジェイド、何か知ってるの?」
「いや、知らないよ。でも俺は君より孵化が早かったし、ラクエルだからさ、今までに少し小耳に挟んで来たことがあるんだよね」
マリアラはジェイドに向き直った。ジェイドがさらに声を低めた。
「知りたいなら、少しだけ、手伝ってあげられると思うよ」
「それは……で、でも。でも、どうして?」
ジェイドは眉を下げた。困ったように。
「あんなふうにイェイラに殺されそうになってさ、君には何にも関係なかったのに、全部君が悪いみたいに言われてさ。ひどい話だよな。だからさ、このまま全部忘れてまたフェルドと一緒に仕事してくなんて、無理なんじゃないかなと思ったんだよ」
「うん……」
それは確かに、そのとおりだ。
でもジェイドと会ったのはほとんど今日が初めてだ。それなのに、どうしてそんなことを教えてくれるというのだろう。マリアラはジェイドを見上げて、その焦茶色の瞳から真意を読もうとした。
ジェイドはさらに困ったように笑った。
「感心したんだ。だって君さ、イェイラに殺されそうになったの、結局フェルドのせいなんじゃないの?」
「違うよ!」
即答すると、ジェイドは笑った。
「そういうところがさ。すごいな、と思って。自分は関係なくて、ただ巻き込まれただけなのに、フェルドのためにいろいろ調べてみて、うまく行くように協力するんだろ? さっきそう言ってたろ。だから俺も、そうしたいなあ、って思ったんだ」
「……」
「でもフェルドは気の毒だね」
言われて、マリアラはうつむいた。「……うん」
「君がグールドに狙われたのも、そのためにラセミスタがケガしたのも、フェルドのせいだ。君もラセミスタもそう思わないんだろうけど、少なくともフェルドはそう思うよ」
「……」そうだろう、とマリアラも思った。「うん」
それが怖かった。怖くて怖くて、たまらなかった。
フェルドがそう思ったら、フェルドは、マリアラとの相棒を解消するというかもしれない。マリアラを疎んじてではなく、マリアラの身を案じて。これ以上、フェルドの相棒だからという理由で、マリアラが誰かに狙われずに済むように――別れることで、マリアラの安全を保証しようとするかもしれない。それが怖い。とてもありえそうで、そのうえ、どう回避していいかも分からないからだ。
「でも話すんだ? 黙っていてあげれば、知らないで済むのに」
マリアラは立ち止まった。うつむいた自分の靴に、血がちょっとだけついているのが見える。ラセミスタの血だ。
その血に向かって、つぶやいた。
「昨日はそうしようかと思ってた」そうだ。フェルドとの別離が、怖かったからだ。「……でもやっぱり、それは良くないと思ったの」
「そうかなあ」
「あなたの理論で言うと……さっきラスがケガをしたのはわたしのせい、だよね」
「それはつまり――」
「フェルドのせいでもあるかもしれないけど、でも、ミランダとわたしをおびき寄せるためにラスが傷つけられたのなら、わたしのせいでもあるんだよ。あなたの理論で言うと、そういうことになるでしょう。だからわたしはさっき、【魔女ビル】に駆け込めて良かった。ラスを助けるのに少しだけでも役に立てたし、ケガも治せた。ラスに謝って、何言ってるのバカって言ってもらえた。甘い物たくさん注文して食べさせたし、今から戻ったらたくさんおしゃべりして、怖い夢見ないように眠らせてあげたりするつもり。だから――罪悪感もあまり感じないでいられるんだと思う」
「……うん?」
「でもぞっとするよ。もしわたしのためにラスがあんなケガをして、それを、わたしが気に病むから、傷つくからって、誰もわたしに教えてくれなかったら。ラスが怖い目に遭って、怖い夢をみて、震えているのに気づきもしなかったら――」
「まあ、確かにね。でもそれを永遠にずっと、君が知らないままだったら、君にとってはなかったことになるんじゃない?」
「なかったことになんかならないよ。フェルドには何か大きな役目があるみたいなんだもの。それを知らないで、何事もなかったかのように生活していくなんて無理だよ、だから」
そうだ。もう何事もなかったかのように知らんぷりを続けることはできなかった。イェイラが恨めしかった。
「だから感心するんだよ、君には」ジェイドが笑った。「いつかは絶対に避けられなくなることなら、一番傷が浅くて済む方法を選んであげようとしてるんだ。優しいんだね、マリアラ」
「……違うよ」泣きたくなった。「ただ……単に、嫌われたくないだけなんだよ」
「まあ、そうでもさ。だから俺も協力したくなっちゃうんだよ。もしよかったら、手掛かりのありそうな場所に連れて行ってあげる」
「どこ?」
「校長の部屋ー」ジェイドは面白がる口調で言った。「この騒ぎだ。校長も出かけてるだろう。校長の噂、聞いたことある?」
「……噂」
――僕もその噂は聞いたよ。でも信じたくないな。
モーガンの言葉が耳によみがえって、マリアラは身震いをした。ジェイドもその噂を、知っているのだろうか。
「手がかりがあるならたぶんあそこだね」
そうだと、思った。メイファの参考文献だとか、そういったものの手がかりが、残っているとしたら、それは校長の手のひらの中だろう。
「……でもラスをあんまり放っておきたくないから、また後ででも……」
言うとジェイドは首をかしげた。
「いや、行けるのは今だけだと思うよ。だってほら、今はこの騒ぎだろう? 校長も、その手下も、きっとみんな出払ってる。でも落ち着いたら戻って来る、だから、チャンスは今だけだと思うけど」
「……」
「まあ友だちがあんな目に遭ったんじゃあ、そりゃひとりで放っておくのは心配だよね。まだ泣いてるの?」
「あ、う、ううん。もう、泣いては……」
ジェイドは、だったら、と明るい声で言った。
「もうちょっとくらい変わらないんじゃないか? どっちにせよそんなに長居はできないと思うよ。十分くらいなら平気じゃないかな」
そう言われると、確かにそのとおりだ。ラセミスタはまだ、マリアラの不在に気づいてさえいないかもしれない。
でも、行き先が、よりによって校長の執務室だなんて。
先程のイェイラとの会話がなかったら、たぶんうなずかなかっただろう。
でもイェイラの前で宣言してしまった。出来損ないで、蚊帳の外で、部外者であるマリアラがフェルドのために何かできるとしたら、いろんなことを調べてあげることしかないというのに、〈アスタ〉を相手に実際にそれができるのはラセミスタなのだ。ラセミスタはそれはもう嬉々として協力してくれるつもりらしいが、でも――
でも、これなら。
自分で、調べることが出来る。
「大丈夫。俺は右巻きだから。何かあったら助けてあげられるよ」
ジェイドの声に励まされて、マリアラは足を進めた。
校長の執務室が【魔女ビル】にあるのはなぜだろう、と、その階に足を踏み入れたときにマリアラは考えた。工房のように、本来は【学校ビル】にあるものではないだろうか。
その疑問を口にすると、ジェイドも首を傾げた。
「そう言われると本当にそうだな……何でだろうね。〈アスタ〉があるからかもな」
「〈アスタ〉が?」
「〈アスタ〉の本体って【魔女ビル】にあるだろ。校長の仕事にも〈アスタ〉の協力が不可欠だろうから、【魔女ビル】の方が有利だってこともあるのかも」
「そう……かな?」
「それにさ、【学校ビル】って人が多すぎるもんな。一般学生も就労学生も教師もひっきりなしに出入りするだろ。【魔女ビル】の方が落ち着けるのかもね」
マリアラは微笑んだ。「なるほど」
確かにその階は静まり返っていた。そこは【魔女ビル】の七階だ。元老院議員の執務室がずらりと並んでいて、ひとけが全くなかった。おそらくみんな四階下の医局に詰めかけているのだろう。あまりの静寂に耳が痛みそうになる。
「……今ならやっぱり、大丈夫そうだな」
ジェイドが言ってきて、マリアラは自分が緊張しているのに気づいた。もし万一、校長先生が部屋にいたら、どうしたらいいのだろう。
そう言うと、ジェイドは笑った。
「いないって。……まあもしいたら、俺がなんとかごまかしてあげる」
「どうやるの?」
必要な時はもうすぐなのに。ジェイドはもう一度笑った。
「心配性だな。ふたりでひとけのない部屋を捜してたんだって、言えばいいじゃないか」
「……なんのために?」
眉根を寄せるとジェイドは顔を歪めた。吹き出しそうになったのを慌てて堪えたらしかった。マリアラはぽかんとして、次いで、憮然とした。どうして笑うのだろう、こんな時に。
「……いやごめん、悪かった。ちょっとからかいたかっただけだよ」
ジェイドは苦しそうにそう言って、笑いを抑え込んだ。それから真面目な顔をして、考え込んだ。
ややして、言った。
「そうだな。うん。イーレンタールを捜してたって言えばいいよ」
「イーレンタールを?」
「ヴィレスタがケガ、しちゃったんだろ。ラセミスタも療養中だし、治せるのはイーレンタールだけ。だから捜してるって言えばいい。イーレンタールは結構校長の執務室に来るからね」
「……そうなの?」
どうしてそんなことを知っているのだろう。
そう思ったとき、校長の執務室に着いた。他の議員の扉と全く変わらない、簡素といえそうな扉だった。
ジェイドが大きな音を立ててノックした。静まり返った廊下に響き渡るほどの音だった。身を縮めて数秒待ったが、返事はない。
ジェイドがそっと扉を開ける。中は薄暗かった。結構広い部屋だった。マリアラとラセミスタのふたり部屋が、みっつほどは入るだろう。正面、十数歩ほど歩いた先に大きな執務机があり、その向こうは大きな窓になっていた。今はカーテンが閉まっている。左の壁は全てが本棚になっており、様々な書類や本が几帳面に整理されてしまわれていた。入り口側の壁の左隅に給湯設備があり、右隅には大きな観葉植物があった。右側の壁は本棚と飾り棚になっていて、その飾り棚には、古びた小箱が置いてある。年始の儀式の際に、マーセラから遣わされたとして使用される伝説の小箱だ。
執務机の正面、つまりマリアラたちの立つ場所の頭上に、大きなスクリーンが設置されていた。執務机に座ればこのスクリーンに〈アスタ〉や様々なデータを呼び出して見ることが出来るだろう。この部屋には応接セットがない、とマリアラは考えた。助手のための設備も一切ない。なんだか、校長がひとりで籠もって仕事をするための部屋のようだ。
そして今は、無人だった。
「うーん……机からかな、やっぱ」
ジェイドは平気で中に入っていく。マリアラもおずおずとついて行った。扉を閉めて、数歩進んだ。ジェイドが机に行ったから、まずは本棚だろうか、と思う。
その時だ。
足下の床が消えた。
え、と思ったときには落下していた。ひんやりとした冷気と更に濃い闇が吹き上がって全身を包んだように思った。『マリアラ!』ミフが胸元から飛び出した、元の大きさに戻ってその柄をマリアラが掴んだときには、落下が終わっていた。どすん、と全身に衝撃が走って、落ちたのは死ぬほどの高さではなかったとわかる。でもたぶん、二メートルは落ちただろう。
「い……っ、てて、て」
呻きながら、なんとか、身を起こそうとしたときだ。
更に信じられないことが起こった。
ばん、とマリアラの左ポケットが爆発した。ざらざらざらざらとそこからあふれ出たのは、様々な魔法道具だった。マリアラはただ呆気に取られて、自分の身体を押しやるほどの勢いであふれ出続ける魔法道具を眺めた。一体何だろう。一体どうして、こんなことが起こったのだろう。
魔法道具はマリアラが今いる四角い穴を半分ほども埋め尽くしてようやく止まった。
左ポケットに入れていた巾着袋に入っていた魔法道具、全てが、一度に元の大きさに戻ったら、きっとこういう風になるだろう――
そうぼんやり考えて、とにかく、ここから出なければと思う。あんまり驚きすぎて、何がなんだかわからない。ミフの柄を握り直して、そして、ミフの沈黙に気づいた。
ミフは機能を停止していた。今はマリアラが気絶してもいない、動力を止めてもいないのに。
「……可哀想だけどさ」
ジェイドの声が聞こえた。独り言を呟くような声だった。
「君はもう知りすぎたんだよ、マリアラ。……悪いね」
「……」
待って、と言おうと思ったのに。
すうっ、と音もなく、出口が小さくなっていく。落とし穴の蓋が閉まっているのだ。ジェイドの姿は見えない。足さえ見えない。一体どうして、とまた思った。落とし穴。そう、落とし穴だ。ジェイドがマリアラをここにつれてきて、自分が机のところに行って、マリアラが落とし穴の上に歩を進めたタイミングを見計らって、落とし穴のスイッチを入れて、マリアラをここに落として、今、その蓋を閉めたのだ。
その事実が、ようやく理解できるようになる。
蓋が閉じ、完全に闇が落ちた。穴の底はひどく寒くて、冷たかった。蓋はかなり厚いらしくて、外の音は全然聞こえない。身動きをすると、足が、先ほどあふれ出た魔法道具に触れた。明かりを、と思った。まずは明かりを点けなければならない。
左手を掲げて、魔力を通わせる。……でも。
今は、魔法すら使えなかった。柔らかな明かりはいつまで経っても出現しなかった。普通の闇の中でも、光だけは呼び出すことが出来るはずなのに。今は、普段どうやって光を呼び出しているのか、わからなくなっていた。魔法が使えない、と思う。
――この穴の中では、いかなる魔力も使えないんだ。
そう考えて、それが真実だと言うことに気づいた。……そうだ。魔法道具を小さく縮めるという、魔女でなくても使えるほど簡単な魔法でも、その魔法を使った人が気絶したり死んだりしても維持できるほどにわずかな魔力しかつかわない魔法でも、この穴の中では維持することが出来ない。だから今、左ポケットに入れていた巾着袋の中身が全部、元に戻ってしまって、マリアラの周囲にあふれ出ている。
マリアラは呆然と、左手を膝に落とした。
右手が無意識のうちに動いて、十徳ナイフを探り当てた。
全くの闇の中では、人間の目には何も見えない。先ほど見た出口の大きさからするに、両手両足を伸ばして寝られるほどの広さはあるように思えたが、闇があまりに濃くて、圧迫感を感じた。周囲の壁がのしかかってくるような気がした。唾を飲み込む音が、やけに大きく響いた。ジェイドはどうするのだろうと、考える。……いや。
――あれは、本当に、ジェイド=ラクエル・マヌエル、だったのだろうか……?
悪い人じゃなさそうだったのに。
あの人の良さそうな様子は全て、演技だったのだろうか。
こんなところに閉じこめて、それで、どうするつもりなのだろう。
「……寒い」
マリアラは呟いて、膝を抱えた。自分の身体に触れていないと、足や手や頭が、どこにあるのかわからなくなりそうだ。十徳ナイフの堅さを手がかりにして、とにかく落ち着こう、と思った。
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