魔女の別離
第二章(2)
午前十一時二十分 〈彼女〉
〈彼女〉は〈アスタ〉の警戒情報が何者かによって強制的に書き換えられるのを感じた。こんなことは、ここ十年ほどなかったことだ。
その誰かは、自分の行為を隠す気はないようだった。〈アスタ〉のシステムに侵入し、それを強制的に書き換えるなど、やろうと思ってできる人間はほんのわずかしかいない。ほめられたことではないと、その人物もわかっているはずだ。けれど――確かに、その内容を見て、〈彼女〉は戦慄した。ラセミスタだと、その時にはわかっていた。彼女が〈アスタ〉を説得する時間を惜しんだ理由も、とてもよくわかった。
そして警報が鳴り響く。
ラセミスタの手並みに、〈彼女〉はすっかり感心した。ラセミスタの技術はとても鮮やかだった。こんなことまでできるようになっていたのかと、その成長を喜んでしまいそうなほどに。
「なんだ……?」
カルロスが顔を上げる。〈彼女〉はその時、医局の三階、処置室のカメラに、赤い髪の男が映ったのを見た。思い切りよく開かれたカーテンから現れたのだ。カーテンの奥には寝台があって、にこにこした若い男が土足で座り込んでいた。その背後にも誰かいるような気がしたが、若い男が床に降り立つやいなや笑い出したのでそちらに注意を奪われた。
『あはははははははは! なんだ、もう警報鳴ってんじゃん! なんでばれたんだろうねえ?』
けれど、ラセミスタの警報が、あまりにも唐突に過ぎたためか、魔女たちはすぐには信じられなかったのだろう。患者たちの手前、治療を中断してまで率先して逃げるなどしにくかったということもあるかもしれない。医局の魔女たちは、鳴りやまない警報に背を押されるように、ようやく避難を開始したところだったのだ。赤い髪の男、グールドは、ずかずかと寝台の間を歩いていって、そこにいた魔女を出し抜けに撃った。悲鳴が上がった。続けざまにふたり、三人と撃たれて、医局はさらに騒然となった。【魔女ビル】中に張り巡らされている〈アスタ〉の感覚器官にグールドの起こす惨禍がじわじわと広がり始めて行く――よりによって三階だと、〈彼女〉は考えた。グールドがどうやって侵入したのかはまだわからないが、グールドは一番効果的な場所に出現したとしか思えなかった。【魔女ビル】は一階から三階が医局になっているが、常時一番左巻きの魔女が多いのは、三階の処置室と控え室だ。
「いったい何事だ?」
カルロスが不快げに言った。〈彼女〉は答えた。
『狩人の、【炎の闇】、グールドが、【魔女ビル】三階の医局:処置室に侵入しました』
カルロスは、心底驚いたようだった。
「いったいどうやって――」
『それはまだわかりません』
それはあなたの差し金ではなかったのかと、〈彼女〉は思った。昨日から、通信機器を使ってなにやら画策していたのは、このためではなかったのか。
どうやら違ったらしい。〈アスタ〉はカルロスの道具なのだ。その道具の前で、こんな演技をしてみせる必要なんてどこにもない。
その時【魔女ビル】の事務方も警備隊の受付もすっ飛ばして、警備隊長室に警告が知らされた。ラセミスタの仕事は本当に早い。彼女のいる工房のカメラは、今はオフになっている。だから〈彼女〉には、ラセミスタの姿は見えない。けれどまざまざと思い浮かべられる気がした。あの小さな白い華奢な指先が、キーボードの上でひらひらと踊る様を。魔女が薬を作るときに似ていると、ずっと前から思っていた。
――〈アスタ〉のシステムに侵入して、警戒情報を上書きできる、十六歳の天才。
〈彼女〉は戦慄とともに考えた。
――そしてフェルドの妹とも呼べる立場にいる少女だ。
カルロスが今度のことで、ラセミスタの存在を警戒しなければいいのだけれど――
「被害状況を知らせてくれ」
カルロスがそう言い、〈彼女〉は答えた。
『はい、エルヴェントラ。現在撃たれた魔女は四――五人です。【魔女ビル】の保護局員が出動しました。グールドのいる階、三階に集合し、突入するまで早くても六分はかかります。グールドは逃げる魔女を追って――』
「三階?」カルロスが遮った。「……検査室があるじゃないか」
『はい』
「検査室は?」
『グールドは素通りしました』
ちっ、と、カルロスは舌打ちをした。しやがった、と〈彼女〉は考えた。
――グールドがフェルドを殺すことを、期待したんだ、この男。
『廊下に出られた魔女は窓から箒で逃げ始めています。現在、撃たれた魔女は七人です。グールドが医局を……出ました、今、医局の防火シャッターを下ろしました。これでグールドは医局へは戻れません。撃たれた魔女の毒抜きのために……あれ』思わず地が出てしまった。『イェイラが医局にいます。彼女は無事だったようです。撃たれた魔女の治療を始めています。外へ逃げられた魔女に連絡をして、医局の窓から入って、イェイラを手伝うように指示を出します。――今、ギュンター警備隊長から連絡がありました』〈彼女〉はホッとした。『グールドの位置を知らせるために、【魔女ビル】のカメラ映像全てを公開し、シャッター昇降の決定権及びすべての警備権限を警備隊長にゆだねます。よろしいですね?』
「……わかった」
カルロスは低く答えた。〈アスタ〉のスクリーンを睨んで、拳を口元に強く押し当てて、なにやら考えている。
イェイラ、という名を出したときの、カルロスの反応が今さらながらに気になった。びくりと、震えたように思えたのだ。
――それに、イェイラはほんの少し前に、【国境】を無理やり通って、アナカルシスへ出たばかりではなかっただろうか……?
それが気になって、〈アスタ〉とギュンター警備隊長の会話に意識を集中することができなかった。
「……〈アスタ〉」
しばらくしてカルロスが言い、〈彼女〉はその声音になんだかぞっとした。
『はい、エルヴェントラ』
「マリアラは今、どこにいる?」
は? と、思わず聞き返すところだった。〈アスタ〉ならばそんな反応はしないと自分を戒める。
『【魔女ビル】の工房にいます』
どうして、と聞きたかった。どうして、今ここで、マリアラの名が出てくるのだろう。
「イェイラは? さっき、医局の三階、グールドが出現した場所にいたと言ったね」
『はい。今もそこで、撃たれた魔女の治療に当たっています』
「……」
カルロスは再び沈黙する。何を考えているのだろう。
しばらくの熟考の後、ため息まじりの独り言が聞こえた。
「……まあ、念のため」
――何が。
「〈アスタ〉、独り身の、右巻きのラクエルで、今日荷運びに出かけている、マリアラとそれほど親しくなく、あまり顔を合わせたこともない、若い男って存在する?」
――何だそれは。
『該当者はふたり』〈彼女〉は〈アスタ〉らしく柔順に答えた。『ダスティン=ラクエル・マヌエル、ジェイド=ラクエル・マヌエルです』
――何をする気なんだろう。
嫌な感じがざわざわと押し寄せてくる。胸も感覚もないはずなのに、この感じはどこから来て、どこに向かってきているのだろうと、余計なことを考えた。
午前十一時二十分 ラルフ
今日は風があまりなく、船の速度が非常にゆるやかだったので、ウィナロフをエスメラルダの南岸に送り届けた時はもう昼が近かった。
ウィナロフは陸に上がると伸びをした。それから「ありがとな」ぴん、と銀貨を放ってよこした。本当に相変わらず太っ腹だとラルフは思う。ぱしっと受け止めて、ラルフもにっと笑った。
「毎度」
「じゃあな」
いつもながら、あっさりとしたものだった。ウィナロフは別に顔を隠すでもなく、普段どおりの足取りで砂浜を歩いて行く。さくさくと砂が足元で音をたてる。その音が遠ざかって行く。ラルフはなんとなく、ウィナロフの足が砂浜に足跡をつけて行くのを見送っていた。いつもすぐに戻るのに、どうして今日に限って見送る気になったのだろう。予感だったのかもしれないし、単に、先程までの会話が普段とは全然違ったからかもしれない。
――いいよ、ラルフ。もう少しして、いろいろ片付いたら……
ウィナロフの姿が松林の中に消えた。ラルフはようやく体を起こして、伸びをした。潮風が爽やかだった。静かに打ち寄せる波の音が耳に快い。本当に昨日の嵐が嘘みたいだ。気分がとても良かった。……その時までは。
「ちょっと、そこの」
明るい声がして、ラルフは振り返った。左手の松林の中から出てきてこちらに歩いてきていた女の人が、まっすぐにラルフを見ていた。背の半ばほどまで伸びた黒髪がくるくると縮れて細い体の周囲を彩っていた。目が大きくくりくりとしていて、肌が白くて指が細い。いい身なりをしていた。日に焼けるのが嫌なのか、つば広の帽子をかぶっている。裾のふんわりした黄色のワンピースを着た、二十代半ばほどの、可愛い感じの人だった。
でもその表情に、ラルフは反射的に嫌な感じを受けた。顔立ちは整っていて可愛いのに、表情が可愛くない。それに。
ラルフはむっとした。
――そこの、って、なんだ。
「あんた南大島のルクルスでしょ。帰るのよね。乗せて」
ラルフは彼女をじっと見た。ルクルスって、どうしてわかったのだろう。
エスメラルダの住民ではない、と、ラルフの勘が告げた。ラルフの視線も気にせずに、彼女はさっさとラルフの舟に乗ってきた。まだ乗せるって言ってない、と、更に不快になる。
「あんた誰」
低い声でたずねると、彼女は冷笑した。
「誰だっていいでしょ。早く出しなさい」
「あんたに命令される筋合いはない。それに俺南大島のルクルスなんかじゃない。沖島に帰るんだ。別の舟を捜しなよ」
「下手な嘘ね。だってあんた、今【風の骨】を乗せてきたじゃないの」
「……」
彼女はふふ、と笑った。ラルフの驚きを、楽しんでいる。嫌な奴。ラルフが顔をしかめると、彼女は更にのぞき込んできた。
「ねえ昨日、何があったの?」
「……昨日、って?」
「【炎の闇】が行ってる最中に【風の骨】が同じ島にいたなら、接触しなかったわけがないと思うのよ。そうでしょ。そしてそれ以降、【炎の闇】からの連絡が途絶えた。だからあたし、南大島に行きたいの。ほら早く、出しなさい」
――なんだこいつ。
ラルフはぞっとした。
――こいつも、狩人なのだろうか。
昨日、狩人は入れなかったのに。既に、グールド以外の狩人が、入り込んでいたというわけだろうか?
でもこいつはあの松林の陰に隠れて、ウィナロフをやり過ごした。同じ狩人なら出て来て声をかければいいのに。ウィナロフは狩人の中でも特殊な立場にいるらしいことを思い返して、ラルフは警戒を強めた。爺どもに以前言われた言葉を思い返す。
――他の狩人の手助けなんかもってのほかだが、【風の骨】の手助けだけはしてやれ。
つまりこいつの手助けは『もってのほか』だ。
ラルフの沈黙に、彼女は苛立ったようだった。
「早くしてよ。急いでんのよ」
「あんたなんか乗せる義理はないよ」
彼女の目が細くなった。
「……あんた、誰のお陰で大きくなれてると思ってんの?」
ラルフは思わず叫んだ。
「少なくともあんたのお陰じゃないけど!?」
「どの口で言ってんのよ。エスメラルダのルクルスは狩人のお陰で育ってんのよ。たくさん差し入れしてるでしょ」
やっぱ狩人なんだこいつ。
けれどだからといって、大きな顔をされるいわれはなかった。
「差し入れは――」
「運んでるのは【風の骨】でも、その【風の骨】に賃金だとか活動費だとか払ってんのは誰よ!? あんたなんか狩人がなけりゃおっきくなる前に野垂れ死によ、その分際でこのあたしにたてつこうっての!? あんたたちは黙ってあたしたちに協力してればいいのよ! ほらさっさと出しなさいっ!」
ラルフは自分の目が藍色に染まるのを自覚した。その目を見て、彼女は嗤った。
「怒ったの? ふうん、虫けらにもプライドはあるってこと? ばっかみたい。言っておくけどあたしに逆らったらあんたの育ての親たちみんなが困るわよ。あんたもね。あたしが命じれば【風の骨】の差し入れだってやめさせることができるんだから。【風の骨】の称号を剥奪することだって簡単よ。あの役立たず」
「てめ――」
その時だ。遠くから、ざわめきの音が流れて来たのは。
ラルフは怒りに水を差されて辺りを見回した。昨日、嵐の中で、マリアラの後ろに乗せてもらって向かった方角から、ざわめきと、かすかにだが警報のようなものが聞こえてくる。ラルフは舟のロープをつかんで飛び出した。いけ好かない女が「ちょっと!」と制止の声を上げたが無視して、ロープの輪になっている部分を流木の突起に投げかけて走りだした。女が毒づきながら後を追いかけてくるのを尻目に松林の中に駆け込む、と、
そこにウィナロフがいた。松林の中で、立ち止まっていたらしい。ウィナロフはけげんそうな顔をして【学校ビル】のある方を見ていたが、ラルフが来たのを見て、端的に、悪い、と言った。
「あれが【水の砂】だよ」
「あん……」
「ここに上陸すればおまえに接触する狩人がいるんじゃないかなあ、と思って。やっぱ【水の砂】だったか」
「……あんたあの女がここにいるって知ってたのか!?」
思わず叫ぶと、ウィナロフは首を振った。
「知ってたわけじゃない。だが狩人ってのは基本的に二人か三人の組で動くものだ。グールドが雪山から校長にいれてもらったなら、少なくとももうひとり入ってる可能性は高いと思った。それに昨日グールドがやけに【水の砂】の名を出してた。ヒントをくれてたんだろ」
「あんた以外の狩人ってみんなあんな? 最悪だね」
「……彼女は狩人の中でも一番最悪だ」
「誰がよ」
唐突に【水の砂】の声がした。可愛らしい顔立ちを憎々しげに歪めて、彼女は帽子の下からウィナロフを睨んだ。
「……最悪なのはあんたでしょ。昨日何があったのよ」
ウィナロフの声は冷たかった。
「グールドに聞けよ。俺には報告の義務はない」
彼女は歯軋りをした。
「……あんたこのあたしにそんな口聞いていいの? あんたをクビにするくらい簡単なのよ! いつまでも叔父様が【風の骨】を優遇すると思ってたら大間違いよ、真鉄の研究はどうなったってだいぶお腹立ちよ!」
【水の砂】は細い指先をウィナロフの鼻先に突き付けた。
「エスメラルダの研究者ネットワークを支援する条件、忘れたわけじゃないでしょうね!? モーガンだかローガンだか知らないけど、真鉄の製法には全然関係ない研究者だって言うじゃない! あんたあたしたちを虚仮にするのもいーかげんにしなさいよ、いつまでも【毒】の採取が――」
「【水の砂】」ウィナロフが静かに言った。「声が高い。ここがどこだと思ってる」
「あたしに対してそんな口の利き方すんのはあんただけよ」
彼女は憤然と、だが少し声を低めて言った。
「あたしを誰だと思ってんの。額ずけとまでは言わないわ、でも」
「これはご無礼を。生まれついての無作法者で。英傑王の時代より連綿と続く高貴なお血筋に対する作法も存じませんで」
ウィナロフが恭しく頭を下げ、【水の砂】は鼻を鳴らした。
「……慇懃無礼ってこういうことをいうのね。まあいいわ、忠告してあげる。あんた、そろそろこの辺りで、叔父様のご機嫌取りをしておいた方がいいと思うわよ」
彼女は媚びるように目を細めてウィナロフの顔をのぞき込んだ。
「真鉄の製法がまだ無理なら、……エルカテルミナを叔父様のところへつれて行く、とか?」
エルカテルミナ、と聞いて、ラルフは息を飲んだ。ウィナロフは表情を変えず、【水の砂】は婉然と微笑んだ。
「最新の情報なの。特別に教えてあげるわ。新たな『右』が生まれたらしいの。若い男の子。〈アスタ〉の登録上はラクエルよ。校長が既に足かせをはめてるらしいけれど、自分の役割についてはまだ知らないみたいね。『左』も揃えば完璧だけど、まだ生まれてないなら無理だから、とりあえずは『右』だけでも……あんた、【壁】を通れるんだから、なんとかそのラクエルと接触して、騙すなり何なりしてアナカルディアまでつれて来なさいよ。そうしたら叔父様も大喜び。校長に対して強力な切り札になるもの。真鉄の製法がしばらく手に入れられなくても、あんたをクビにするとまでは言わないはず。ついでに『左』の誕生がどうなっているのか、調べて来たらもっといいわね」
「できるわけないだろ」
ウィナロフが言い、彼女は冷笑した。
「できるでしょ。【風の骨】なんだから」
「無理だ」
「じゃあ真鉄の製法をもって来なさい。そうじゃなきゃクビよ、クビ。あんたなんかいなくなったって誰も困らない」
彼女はさげすむように嗤った。どうして言われっぱなしになっているのかと、ラルフは歯痒くてたまらなかった。どうしてこいつはこんなに偉そうなのだろう。【水の砂】というのは【風の骨】より位が上なのだろうか。こんな奴、どついて縛り上げて小船に乗せて海に流してしまえばいい。何よりエルカテルミナを捕まえるようにと命じるなんて、それは、フェルドを――
考えて、ラルフはぞっとした。
狩人にとっても、フェルドは重要な存在であるということ、らしい。
【水の砂】は特別に教えてあげると言ったが、ウィナロフもラルフも、彼女から聞く以上の情報――フェルドの外見や名前――を持っている。そのことを彼女に悟られては大変だ。ラルフは表情を取り繕ったが、もともと【水の砂】はラルフには一瞥もくれなかった。
「……ねえそれで、グールドはどこにいるの。南の大島?」
「知らない」
ウィナロフは言い捨てて、きびすを返した。松林の中を無造作に、【学校ビル】のある方に向けて歩いて行く。ラルフもついて行き、【水の砂】が背後できいっと言った。
「何で知らないのよ! 教えなさいよ! いい情報あげたじゃないの! ちょっと!」
「声が高い」
「あんたってほんとに最低よ! 叔父様がいつまでもあんたを可愛がると思ったらほんとに大間違いなのよ!? あたしがとりなしてあげてるからまだなんのお咎めもないのよ、あんたそれがわかってんの!?」
ウィナロフがぴたりと足を止めた。
くるりと振り返って、笑顔を浮かべて、松林の先、【学校ビル】の方角を示した。
「聞こえませんか、リーザ姫? 【学校ビル】の方で警報が鳴っているようです。【夜の羽根】にお知らせする必要があるのではないですか」
「――」
彼女は目を眇めてウィナロフを見た。
何か言おうとしたが、でも、警報が確かに聞こえたのだろう。つんとあごを逸らして、ウィナロフのとなりを擦り抜けた。そのまま足早に去って行く。ラルフはぎゃんぎゃんわめく彼女の声が途絶えたことに心底安堵した。あんな大人にだけはなりたくないと思った。成長していけば、いつか男に見てもらえなくなる日がくるのだろう、体つきが変わってしまい、どこからどう見ても女だと、ばれてしまう日がくるだろう。だがそうなっても、絶対にあんな女にだけはなるまい。
「……リーザ、姫?」
見上げるとウィナロフはため息をついた。
「そ。【夜の羽根】の姪、つまり、アナカルシス王家のれっきとした姫君。世が世なら俺なんかご尊顔を拝する栄誉に浴する機会さえあるわけない、雲上のご令嬢様ってわけだ」
「あの人が? へえー。姫君って舞踏会に出てダンスしてにこにこしてんのかと思ってたら。結構やな感じなんだね」
「まあ姫君にもいろいろいるだろ」
「……ねえウィン、真鉄って何?」
たずねるとウィナロフは顔をしかめた。
「それについては聞かないでくれ」
「その情報持ってかなかったら、ウィン、クビにされちゃうの?」
ラルフは言って、自分でも変だな、と思った。
さっき『やめてくれ』と頼んだのは自分なのに。
ウィナロフは苦笑した。
「そう息巻いてんのは【水の砂】だけだ。なんか俺が気に入らないらしい、まあ、気に入られたくもないけどな。あの人は【夜の羽根】の姪だしお気に入りだし見境もない。だから自分の発言力を過信してる」ウィナロフはラルフの頭をぐりぐりと撫でた。「大丈夫だよ。俺がやめても差し入れは続くようにちゃんとしとくから」
「……そんなこと心配してないよ」
「悪かったな、やな思いさせて。【水の砂】がグールドの動向をどれくらい知ってるのか確かめたかったんだ。ほとんど何も知らないみたいだよな」
「ねえウィン」ラルフはウィナロフを見上げた。「……エルカテルミナって、なに?」
ウィナロフは一瞬沈黙した。
黒い瞳に、用心深そうな色が宿った。
ラルフは言葉を重ねた。
「昨日話しただろ。イェイラって魔女がマリアラを殺そうとしたのもそれが理由らしいんだ。フェルドが、えっと『右』? なんだよな? 狩人にまで狙われちゃうの、フェルド」
「……狩人が校長と手を組んだらしいだろ」
ウィナロフは静かに答えた。ラルフは、聞かないでくれと、言われなかったことに安堵した。
「でも味方になったわけじゃない。エルカテルミナを狩人が手にいれれば、校長はかなり困るだろうな。……まあでもさ。あいつだけなら手出しは無理だよ、たとえグールドでも。毒も効かない。闇の中に誘い出せればどうにかできるかもしれないけど、狩人相手にそんな隙を見せそうもない。昨日だって多分、光珠、複数持ってた。今日あたりからきっと十個くらい持ち歩くだろ。……狩人にとっては生かして捕まえなきゃ意味がないけど、たとえできたとしても、そのまま捕まえておくことができそうもない。【水の砂】はその辺のことがいまいちわからないんだよ。どれほど血筋が高貴だろうがエルカテルミナにかなうわけないんだ。……でも」
ウィナロフはひどく真摯な声を出した。
「『左』はそうはいかない」
「……まだ生まれてない、って?」
「まあ、二度目の孵化はまだだ。でも存在はしてる。たとえ今の段階ででも、その誰かが『左』だとばれたら、狩人は簡単に捕まえられるし、狩人に手に入れられるくらいなら、校長はその前に殺すだろう。……だからまだ二度目の孵化が起こらないんだろうな、あんまり危険だから。なるほど」
「……何が、なるほど?」
「校長に長年阻止され続けて、女王も用心深くなってるだろうって話だよ」
「……女王って、誰?」
「虐げられし、世界を抱く真の女王、か」
ウィナロフは揶揄するように言って、ふと、顔を上げた。遠くで鳴り続いていた警報が止んだのだ。それでも事態が解決したわけではないらしい。街のざわめきは一層高まるばかりだ。
「……何があったんだろうね」
「行ってみるか」
ウィナロフが歩きだす。ラルフもついて行く。そしてラルフは、言った。
「【水の砂】に見つからないようにしよう」
「当然だ」
その言い方を聞いて、よほど嫌いなのだと分かって、ラルフはうなずいた。当然だ。
Copyright 2009 AizawaAkino All rights reserved.