魔女の別離
第一章(2)
午前八時三十分 マリアラ
マリアラはミランダの部屋の扉を叩いたが、返事がなかったのに首をかしげた。まさかもう出かけたのだろうか。
〈アスタ〉に聞くのははばかられ、困ったな、と呟いた。うーん、と唸って、きびすを返した。確か待ち合わせは十時だと聞いた気がするが、先日来のミランダの取り乱しぶりを考えると、もしかしたら遅刻するのではないかという心配のあまり、すでに駅に向かっているのかもしれない。
――〈アスタ〉は校長の道具なんだ。
ギュンターとガストンが口を揃えて言った言葉さえなければ、ミランダの居場所を〈アスタ〉に聞けるのに。
医局には行かないはずだ。まさかとは思うが、待ち合わせの場所に行ってみよう。
今日の午後からは待機時間だ。けれど午前中は何もないので、今は私服だった。ということは仕事のふりして箒に乗ることもできないわけだ。仕方なく足を速めた。
午前九時 〈彼女〉
カルロスが執務机についた。相変わらず勤勉な男だった。
〈彼女〉は昨日のおやつ時を過ぎたころからずっと、息をひそめて成り行きを見守っていた。
カルロスがその時間からずっと、例の通信機器を離さず、誰かからの連絡を待っているということ。
同時刻に南大島出張所から沖島のガストンへ連絡があり、それを受けたガストンが、指導中の研修生ひとりを伴って、荒れ始めた海へ飛び出したこと。
ガストンが昨夕『害虫駆除について相談がある』とギュンターに連絡し、ギュンターはそれに応えて外出先から直帰していること。
南大島出張所からの定期連絡が、昨夜に限って、いつものザールからではなくベネットからなされたということ。
ガストンと研修生は真夜中近くなってようやく沖島へ戻ったということ。急な外出の理由は、南大島出張所に重大な忘れ物(研修生の指導に必要な書類一式だとガストンは説明した)をしたためだということだった。嵐のために帰還が遅れたそうだ。一応は筋が通っている。
今朝、本土にいる警備隊員のひとりが、南大島出張所の隊員に、同期会の出欠確認のために連絡をとろうとしたところ、出たのはやはりベネットで、その隊員は今手が離せないので伝えておく、と返事をしたということ――
〈アスタ〉に入ってくる、さまざまな些細な情報は、ひとつひとつを見れば取りこぼしてしまいそうな小さなものだ。でも南大島出張所に関する情報だけ抽出すると、何かうごめくものがある。〈彼女〉はそのすべてを注意深く集めた。息を殺して、細心の注意を払って。〈アスタ〉にはちゃんと釘を刺してある。カルロスへの報告はすべて〈彼女〉がするから、余計なことは何ひとつ伝えないようにと。
――聞かれたことには答えなければならない、けれど。
通常どおり執務を始めたカルロスを見つめながら〈彼女〉は考える。
――聞かれないことにまで、答える必要はない。
いよいよその日が来るのだろうか。この男を、エルヴェントラの座から追放する日が、ようやく来るのだろうか。今となっては憎い憎い仇だ。どんなに憎んでも憎みきれない。だってこの男は〈彼〉を殺した。あたしのだいじなだいじなあの人を、その思い出を踏みにじった。
ガストンと、ギュンター。そしてナイジェル副校長。彼らならばなんとかしてくれるのかもしれない。どうか頑張ってほしい。今度こそ。今度こそ。今度こそ――
――期待など空しいと、幾度も思い知っているけれど。でも。
午前九時三十分 ミランダ
グムヌス氏は、うわべは機嫌が良かった。七十近い年齢の、一見人のいいお爺さんだ。気に入った人間にはとても優しい。ひと月かふた月に一度医局に現れるのだが、気に入った魔女に治療してもらうのを何よりの楽しみにしているのだそうだ。ここ一年ほどはミランダの担当になっている。以前担当だった魔女は、グムヌスの『寵愛』がミランダに移ったとき、残念なような、でもホッとしたような様子だった。グムヌスは優しく、話題も豊富で退屈しないし、『愛すべきお爺さん』なのだと彼女は言った。けれど、聞き分けがないのだ。担当の魔女が休暇だろうとなんだろうと、それこそ【水の世界】に人を救出に行っているのでもない限り、呼び出して欲しがるし、どうしても都合がつかないならその魔女の身体が空くまで待っている。待っている間に医局中を覗き回って、その時周囲にいる魔女が治療中でもお構いなしに質問責めにし、来局している患者の容態や治療の方法だの、薬の精製方法だの、現在医局に所属している魔女のプロフィールだのを根掘り葉掘り聞きまくるという悪癖がある。さらには待っている時間に応じて機嫌がどんどん悪くなる。まだ担当が来られないから一度帰ってくれと言っても聞かない。担当の魔女が戻ったら、治療に伺わせますからとまで言っても駄目なのだ。魔女を呼びつけるなんてエスメラルダ国民のすることではない、と真面目くさって言うのだそうだ。
つまりグムヌス氏の希望は、担当の魔女がグムヌス氏の都合のいい時間にはいつも待機していて、いつも快く笑顔で迎えてくれることなのだ。そうでないと機嫌が悪くなる。悪くなるばかりではなく様々なところに実害が出る。
ミランダは今まで、運良く、グムヌスの要望に応えられないことが一度もなかった。ミランダが医局に詰めていないときにグムヌスが来局したのは今日が初めてだ。
――何も、よりによって今日じゃなくても!
にこやかな仮面の裏で嘆き悲しんでいるミランダの様子に、グムヌスはたぶん気づいていた。
グムヌスは年齢の割に――というより、この年齢だから、なのだろうか――とても子どもっぽい。確かに『愛すべきお爺さん』だった。愛嬌がある。我が儘を言っても、しょうがないなと許してしまう何かがある。気に入った孫のような魔女が、誰かとの待ち合わせのために、普段にないおめかしをしているということで、グムヌスはどうやらへそを曲げたらしい。全身の凝りをほぐし血行を改善し終え、もうどこも痛くも重くもないはずだというのに、彼はいっこうにミランダを放そうとしなかった。
時計を見ると、九時半だ。かれこれ一時間以上も彼はミランダを独占している。
その髪型はとてもよく似合うと彼は言った。だが、今日は休暇だそうだがこれからどこへいくのかねとか、誰と会うのか、何をするのか、そういうことについては一切聞かない。わかっているのだろう。憎からず思っている異性と会うのだと、百戦錬磨の元老院議員なのだから、それくらいのことはわかっているはずだ。だから居座っている。何食わぬ顔をして、のらりくらりとしているわけだ。ミランダはほとほと困り果て、何十度目かに時計を見て、諦めた。
少し離れたロッカーの陰でグムヌス氏を睨み殺しそうな顔をしているヴィレスタに、メイに伝言を伝えてもらうことにした。
――先に駅に行って、シグルドに、どうしても抜けられない用事で少しだけ遅れるって、伝えてくれない?
グムヌス氏の機嫌を損ねてでも、治療を切り上げて駅に向かうのは簡単だ。だが医局の一員として、もはやそうすることはできなかった。ミランダは今制服を着ている。医局の看板を背負っているわけだ。ここに来て、満足していない患者を追い返すようなまねをするくらいなら、初めから承諾すべきではなかったのだ。
ヴィレスタが了解して走り出ていく。メイの感覚器官を通してそれを確認し、ミランダはホッとした。シグルドには本当に申し訳ないことだ。四時間もかけて来てくれているのに、駅で迎えないなんて失礼な話だ。誤解されないといいのだけれど。
ミランダの心境をよく知りながら知らないふりをして、グムヌス氏は最近出張で行った、レイキアの風景や食べ物についてよどみなく話し続けている。
午前九時四十分 マリアラ
駅にもいなかった。
私事なのでミフに乗ることもできず、【国境】から駅までの約二キロの道のりを、小走りで往復してしまったものだから、マリアラは戻ってきた【国境】で一息入れることにした。へとへとだ。
どうして【国境】から駅までの間には動道もトロッコもないのだろう。いや、アナカルシスの国土だからだと、よくわかっているけれど。
【国境】脇のベンチに座って考える。
「ミランダ、どこ行っちゃったのかなあ……」
自動販売機で冷たいお茶を買って、飲みながら青空を見上げる。昨日の嵐が嘘のような輝かしい午前だった。木々の梢が濡れていて、キラキラ光ってまぶしい。
その時、マリアラの背後を、小さな子どもがすごい勢いで駆け抜けていった。
えっ、と思って振り返ると、黒髪をおかっぱに切った五歳くらいの少女の後ろ姿が、【国境】の警備員に手を振って素通りするところだった。ヴィヴィ、と声を上げたときには、すでにその背が【国境】の向こうに消えている。
――ヴィレスタ、かな?
【国境】を素通りしたのだ。〈アスタ〉のデータベースに通行証が登録されている、つまり魔女やリズエルのような立場のはずだ。加えてあれくらいの体格なら、それはヴィレスタに決まっている。
――どうして?
追いかけようにもあまりに速くて追いつけるとも思えない。それにヴィレスタはひとりきりだったのだ。ではミランダはいったいどこにいるのだろう。
ミフに追いかけてもらおうかと思ったとき、今度は小指大に縮んだ箒が飛んできた。
箒は一度行きすぎて、マリアラに気づいて戻ってきた。膝の上にふわりと浮かんで、フェルドによく似た声で言った。
『あー、やっと見つけた。何やってんだよ、マリアラ』
「……フィ?」
どうしたの、と訊ねると、フィはくるりくるりと宙返りをしながら言った。
『昨日の今日だから、フェルドがマリアラと一緒にいてくれって言うからさ。もし何かあったらすぐフェルドにわかるだろ』
ずいぶん心配されているらしい。マリアラはむずむずしたが、でも、気にかけてもらえているのは嬉しかった。
「フェルドは?」
『午前中は検査』
「……そっか」
『なんかそろそろ、本格的におかしいよな』フィはあっけらかんとした口調で不穏なことを言った。『昨日さ、グールドって狩人が、フェルドのことエルカテルミナって言ったんだ。聞き覚えあるってフェルドが言ってた。ほら、あの……ラスと三人でどっか行っちゃった時にさ。ニーナがそう呼ばれてるの、一度聞いたんだって。エルカテルミナって、王女って意味なのかなってその時は思ったそうなんだけど、フェルド、王女じゃねえよなーどう見ても』
あっけらかんとフィは笑う。マリアラはその間に表情を立て直した。
「エルカテルミナって、ニーナがそう呼ばれてたの、わたしも聞いたよ」
『やっぱそうだよなー? なんなんだろうな、エルカテルミナって。で、こうしつこくしつこく検査されてんのって、それが理由なんじゃないかなって思ったのさ』
「……そうか」
――そうなんだ、きっと。
今さらふに落ちた。
イェイラはザールの『恋人』で、ザールは校長の密命で狩人を迎え入れようとしたのだ。校長はイェイラにも足かせをはめたと思い込んでいる、とイェイラが言っていたような気がする。
校長は『エルカテルミナ』を閉じ込めたがっている。
イェイラは閉じこめられたフリをして、機会をうかがっていた。次代の『エルカテルミナ』が生まれるのを――そして、『エルカテルミナ』を校長の手から自由にする機会を。ややこしい話だ。でも。
(校長はいろんな人に『足かせ』をはめ、歴史をねじ曲げ、キィワードをすり替え……)
イェイラの言葉がどんどん脳からあふれ出て来る。モーガン先生が殺されかけたのも、『エルカテルミナ』を閉じ込めている理由につながるのだろうか。
――それなら校長のもとを逃げ出さない限り、検査が終わる日なんか永遠にこない、ということなのだろうか……?
マリアラは立ち上がった。フィが訊ねる。
『で、マリアラ、こんなところで何してんだよ』
呼吸を整えた。
「……ミランダを捜してるの。ミランダはイェイラの近くにいるし、出張医療も一緒だったから、先に、その、警告だけでもしておいた方がいいかなあって……わたし、今日は午前中はあいてるから」
一瞬間があった。フェルドに伝えたらしい。
そして、呆れたような声がした。
『それはいい考えだってさ。……でもマリアラ、ミランダ医局にいたぜ?』
「……医局?」
イェイラの近くに? 一瞬背筋がぞくりとした。
『フェルドが九時過ぎに行ったときにはもう、なんか、元老院のじーさん? じーさんの治療してたって。検査室からは処置室は見えないから、今もいるかどうかはわかんねーけど、シフトに入ってるならまだいるんじゃねえの?』
「ミランダ、今日は休みのはずだよ」
『そうなのか?』
マリアラは再び早足で歩き始めながら、頷いた。いったいどうして休みの日に、しかもこんな大事な日に、医局に出勤したのだろう。
胸元でミフが言った。
『さあっマリアラ! 今度こそ乗ろうよ! あたしに乗ればひとっ飛びよ!』
「……駄目だよ、だってミランダ私服に着替えて来るはずだもん。エスメラルダの中、箒で飛ぶわけないから、すれ違っちゃうかも」
『えー!』
『えー!』
二本の箒が口々に抗議の声を上げる。マリアラもげんなりし始めながら、さらに足を速めた。
Copyright 2009 AizawaAkino All rights reserved.