魔女の別離
第一章(1)
午前七時 ラセミスタ
今でもよく夢を見る。あたしの味方はこの世にひとりもいないのではないかと、思っていた頃の夢だ。
今ならわかるのだ。味方なんてたくさんいた。フェルドもいたし、寮母さんだって優しかった。ダニエルもことあるごとに連れ出してくれた。そのうち身内に加わったララだって、話を聞いてくれて、匿ってくれて、大丈夫よきっと上手くいくわと励まして、背中を叩いてくれていた。
――それでも彼らは、一番いて欲しい時には一緒にいられない人たちだった。
授業中や夜眠るとき、昼食のとき、おやつの時間。周りで楽しそうにおしゃべりして、友人同士で顔を寄せ合っては笑う彼女たちとの距離は、肌が触れそうに近いのに、世界の果てほどに遠かった。フェルドに比べれば、少なくとも幼年組を終える頃には、物理的な害はなくなっていたはずだ。けれどラセミスタには、幼年組の頃の方がまだ良かったと思ってしまいそうな日々だった。女の子たちの作り上げる輪はひどく強固で、その外側にいる人間に対してひどく険しかった。その上彼女たちはとても頭がよく、ラセミスタの孤立をラセミスタのせいにした。あたしたちは仲間はずれにする気はないんです。いじめてるなんてとんでもない、そんなつもりはないんです。だってなにもしてないもの。あの子が気にしすぎなんじゃないですか?
あたしがいじめてるって言ってるんですか? あたしたちが何をしたって言うんですか?
何もしてないのに、したって告げ口されるなんてひどい。こっちが被害者です――
彼女たちには、本当にその気はなかったのかもしれないと、今では考えることもある。でもそのたびに、思い出すのだ。ラセミスタがすれ違いざまに触れてしまった肘を、汚いものでもついたかのようにこれ見よがしに払い落とすまねをして、友達同士で目配せしあってくすくす笑ったあの声とか。魔法道具理論の教科書がなくなってしまって、どこを捜しても出てこなくて、知らないかと聞いたら、あなたは頭がいいんだから教科書なんかいらないでしょ、と言ったあの声とか。仕方なく寮母さんに頼んで新しい本を買ってもらって、机にしまったその夜に、何度も捜した引き出しから古い本が出てきたとき。あったじゃない、よく捜さないで人のせいにするなんて、可哀想に思われたいだけなんじゃないの――とひそひそ囁いた声だとかを。
たぶん自分は弱かったのだろうと思う。気にしないでいれば、本当に、彼女たちの仕業ではなかったのだと、わかる日も来たのかもしれない。あの頃も、あの子たちの言うとおり、気にしすぎの被害妄想なのかもしれないと、自分でも考えていた。強くあろうと思いもした。それでも、毎日毎日、息が上手くできなかった。実害がないのが却ってひどかった。実害があれば、やめてくれと言えたのに。無視しないでと言っても、無視なんかしてないと言われるだけ。被害妄想だと、逆に攻撃される始末だ。それが一番つらかった。人に比べて自分が弱い人間なのだということが。大したことじゃないのに辛くてたまらない自分の弱さが。誰もが持っているらしい同年代の同性の友だちが、ひとりもいない自分は、他の子に比べて欠陥があるからなのだろうか、すべて自分のせいなのだろうか、だから無視されるのだろうかと、思わずにはいられないことが。実害がなくても――たとえ誰も、本当にいじめる気なんかなかったのだとしても。外に出て知らない人に会うのを恐れるようになってしまった自分が、ただ弱かっただけなのだとしても。
たったひとりの女の子で良かったのだ。それが今ではよくわかる。
同い年の女の子。隣に座って顔を寄せ合って、他愛ない話でくすくす笑えるともだち。そのひとりがいてくれるだけで、世界の色がこんなにも違う。この世にはこういう人もいたのだと、ただラセミスタが知らなかっただけなのだと、ラセミスタが悪いのではなく、同室の女の子たちが狭量だったのだと――信じられるというだけで、全てのくびきが外れる音を確かに聞いた。その子が一緒にいてくれれば、別の女の子とだって仲良くなれる。たぶんそのうち【魔女ビル】の外に出て、外のお店で買い物したり何か食べたり、一緒に遊びに行くなんてことも、できるようになるのだろう。
だから今は、昔の夢を見るのが楽しみだ。
朝が来たら今の自分に戻れる。今はあの頃とは全然違うのだと、何度でも確認できるから。
――エルカテルミナって、何か、知ってる……?
夢が入り混じって、昨夜の泣き出しそうな声がもう一度聞こえた。目が覚めかけているらしい。
――思い出したの。あの。……ほら……ニーナがそう呼ばれていたの。フィガスタという、右手に紋章を持った怖い人が、ニーナのことをそう呼んだ。思い出したの……敬うように……畏れるように……そう呼んだの。思い出した。
――わたし、エルカテルミナが何か知りたいの……
――きな臭いことなんだと思う。校長が、モーガン先生のリストのように、必死で隠蔽していることみたいなの。でも、もう、知らないままではいられない。
――〈アスタ〉の中に全てが眠っているってイェイラが言った……
それはグレゴリーも言った、と、ラセミスタは、昨夜も、そして今も考えた。
それから、自分がもう目を覚ましていることに気づいた。周囲が明るい。朝だ。
目を開けると、椅子と小さな机の向こうに、マリアラの寝台との間を隔てるカーテンが見えた。マリアラはまだ寝台に横になっているようだ。でも、起きてはいるらしい。昨夜、ミフを治し(溶かして乾かして再起動させたらすぐ治った)、フェルドが事情を説明し終え、ステーキを平らげてアリバイの礼を言って部屋に戻ってから、マリアラが必死で保っていた仮面が外れてしまった。ラセミスタはマリアラから全てを聞いた。そして、エルカテルミナの話も。
――ラス。手が空いたら……その……
昨夜の震える声を思い出し、ラセミスタは勢いよくがばっと起き上がって、伸びをした。カーテンの向こうで気配が揺らぐ。
「……おはよ、う」
しゃがれた声が聞こえて、ラセミスタは窓のこちら側のカーテンを開けた。明るい光がさっと差し込んで来る。まぶしい。
昨日の嵐が嘘のような、輝かしい秋晴れだった。
「おはよ、マリアラ。今日はいい天気みたいだねえ」
そしてラセミスタはさっさと着替えた。ふだんはマリアラの方が朝の身支度は早い。ラセミスタは低血圧で、起きぬけはあまり頭が働かないのだが、今朝は違った。何かが体中に満ち満ちている感じがする。顔を洗って髪を梳かして、寝台を整える。こっちはいーよ、と声をかけておいてから、注文パネルを起動させてのぞき込んだ。食欲もすごくあった。今ならステーキだって食べられる気がする。
――力を……借りてもいいかなあ……?
昨夜、おずおずと、こんな頼み事をしてもいいだろうかと、恐れるようにマリアラは訊ねた。
――もしかしたら危険なことなのかもしれないけど、でも、知りたい。どうしても。
――あの、お礼は、その、あの、そうだ、喫茶店のデラックスまた食べに行くとか、くらいしか……思いつかないんだ、けど。
ラセミスタはパネルに向かってにっこり笑った。身支度を終えあくびをしながら仕切りのカーテンを開けたマリアラが、その笑顔に気づいて微笑んだ。
「ご機嫌だね、ラス」
「んふ。だっていい天気だもん。それに今日の玉子は特製オムレツだよ!」
「わ、やった。わたし特製オムレツ好き。ふわふわでとろとろで、美味しいよね」
「ねー。特製オムレツの日は、なんかいいことありそうだよね!」
ふたりは顔を見合わせて笑い、細かな副菜を選んで注文した。
そうしながら、お礼なんかいらない、と考えた。自分の部屋で、友達と、朝から笑顔で話ができるということが、どんなに重要なことなのか、マリアラにはわからないのだろうか。
以前グレゴリーが言っていた。自分の力を使ってあげたい友人がいるというのは、もっと幸せなことだ。
本当だと、ラセミスタは思う。本当に、本当に、そのとおりだ。お礼なんかいらない。マリアラがいてくれるというだけで、充分すぎるほどだ。
でも、友達と一緒にデラックスを食べに行く機会を逃すのは惜しいから、やっぱりつきあってもらおうかな。
そう思うとなんだかすごく、幸せな気持ちになる。
今まで休日なんかいらなかった。だってどこにも遊びに行く場所がないから。毎日工房に出勤して魔法道具を作ることしか、楽しいことを知らなかったから。
でも今は、休日が待ち遠しい。
――次の休日は、マリアラの荷運びがない日に取るんだ。
「わたし、朝一でミランダに会ってくる。今日はシグルドとのデートの日で、朝からこんな話したら水を差すことになっちゃうけど……でもやっぱり、早いほうがいいだろう、から」
マリアラが言う。ラセミスタはうん、と頷いた。
ガストンという指導官も、ギュンターという警備隊長も、イェイラのことを〈アスタ〉に話すのは一日だけ待ってくれと言ったのだという。〈アスタ〉に話すと言うことは、校長に話すことと同じだ。校長に逃げる隙を与えないために、一日だけ待ってくれと。
だからマリアラは、ミランダにだけは先に話したいと言った。出張医療で殺されかけたのはミランダも同じだ。それにミランダは、イェイラの近くにいる。何もないかもしれないけれど、言わずに済ませることができるような事態ではなかった。
ミランダは今日は休日で、医局へは行かないから好都合だ。
「ラスは今日、工房に行く?」
「うん。でも今は新作にかかってないから忙しくないんだ。もし何かあったら呼びに来てくれて構わないよ」
「そうなの?」
ホッとしたようにマリアラが言う。ラセミスタはもう一度、うん、と頷いて、微笑んだ。昨夜聞いた昨日の事件を思い出すと、先程までの幸せな気分が吹っ飛んだ。背筋が冷えた。本当に危ないところだった。もう少しで、マリアラが、この世からいなくなってしまうところだった。
――ガストンさんとギュンターさんには、ホントに頑張ってもらわなくちゃ。
そう考えながら、届いた朝食をとり、マリアラにひとつを手渡して、自分のを手に椅子に座る。盆の上には、バターをたっぷり使った黄色いオムレツがつやつやと光っていた。小さなトマトとキュウリのサラダが添えられ、それからコンソメスープと、ふんわりしたパンがふたつ、ヨーグルトにはブルーベリーのジャムがたっぷり入っている。
ラセミスタは恐怖を振り払うべく、両手をぱん! と合わせた。
「いただきます!」
午前八時 ミランダ
ミランダは朝まだきから起き出して、今もまだ悩んでいる。
シグルドとの待ち合わせは十時だ。
『ミランダ、大丈夫です。とってもきちんとしていて可愛いです』
ヴィレスタが――驚異的な忍耐力で――そう繰り返してくれる。その言葉を聞くのは何度目だろう。少なくとも両手に余るほどは聞いた気がする。それでも、ミランダは鏡の前から離れることができなかった。
ワンピースにした。ふりふりではなくひらひらがついている。肩の辺りはごく淡い色なのだが、下へ行くにつれて青みを増し、裾は濃い深い海色だ。誰もがミランダによく似合うと褒めてくれたものだ。足元には、踵が少しだけ高い、つま先のほっそりしたブーツを選んでいる。まっすぐな黒髪は熟慮のすえ結うことにして、控えめな飾りをつけてある。本当は揃いの耳飾りと首飾りもつけたいのだ。けれどあまりに派手な気がして踏み切れない。今は小さなペンダントをつけている。高級レストランとか格調高い美術館とかに行くわけもないのだから、これくらいが似つかわしいだろう。
たぶんちゃんとしていると思う。ひとつひとつは趣味がいいはずだし、ミランダによく似合うはずだ、けれど、この組み合わせだとどうにも胸元のひらひらが自己主張しすぎな気がする。
どうしよう。先週から手持ちの服を総動員してあれこれ思考を重ねたすえに、ようやくたどり着いた組み合わせなのに、今朝になってひらひらが気になり始めるとは。でもこれを取ってしまったらそれはそれでおかしい気がする。ミランダはわななく息を吸った。
そして吐いた。
「シグルドにとってはきっとどうでもいいことよね……」
そもそも初対面はTシャツに短パンだったのだ。思い返すと、なんというか、今からでもあの時の自分を穴の底に埋めに行きたい。
『さあ、それはわかりませんが』ヴィレスタは相変わらず穏やかだった。『でも客観的に見て、その服を着たミランダはとっても素敵です。髪形もよく似合います。【国境】を出ることを考えれば少々心配です。レイエルとばれなくても、いろんな人が寄って来そうですから』
「そ……そう?」
そうです、という重々しい頷きを得て、ミランダはようやく鏡から目をもぎはなした。これ以上は時間の無駄だ。朝から数時間を浪費してしまった。リファスからは鉄道で四時間かかるから、シグルドは今頃もうこちらに向かっている。そう思うと立ちすくみそうになるのだが、とにかく、ミランダは心を落ち着けるためにその辺を片付け始めた。
ついでに持ち物をチェックする。
「ハンカチでしょティッシュでしょ……お財布、絶対忘れちゃ駄目だし」
魔女としての生活が四年になるミランダは、財布をもつ習慣がなくなっている。この財布だって出張医療のためにわざわざ買ったくらいだ。シグルドは駅員になったばかりなのだし、鉄道代もばかにならないのだから、昼食などはすべてミランダが出させてもらわなければならない。けれどそれを、押し付けがましくなく、自然にさりげなく納得させるなんて不可能な気もする。却って気を悪くさせたらどうしよう。そう思いながらもミランダは財布を覗き、ちゃんとお金も入っているのを確かめた。
そして気づいた。
「……あああっ!」
『どうかしましたか』
ヴィレスタは優しい。今度はなんですか、とは言わなかった。
ミランダは、財布を開いたまま叫んだ。
「こないだの出張医療でアナカルシスの通貨にしてもらったの、そのままにしちゃってた……! どうしよう、エスメラルダのお金ちょっとしかないかも! 足りなかったら、」
『十時ですから途中で下ろすのも問題ないです。そもそも今日行くのはエスメラルダの駅ですが、国土としてはアナカルシスです。どちらの通貨も使えるはずです』
「あ、ああ、そ、そっか」
そもそも数日前に、下ろしに行くかどうかで似たような会話をした気がする。落ち着け、と自分に言い聞かせて、ミランダはそれからしばらく、持って行く鞄の色と形について悩んだ。ヴィレスタは辛抱強くそれを待っている。
〈アスタ〉が連絡してきたのは、靴に曇りや汚れがないかの最終チェック(三度目)をしているときだった。
『おはよう、ミランダ。……あら、素敵だわ』〈アスタ〉は珍しく脱線した。『今日はおめかしなのね。とっても素敵よ。本当によく似合うわ』
「そ……そう?」
それが社交辞令だとしてもほっとしてしまう。〈アスタ〉はそれから、やや申し訳無さそうに言った。
『そんなにおめかしして準備しているところに申し訳ないのだけれど……グムヌス議員が朝一番で来たいそうなのよ』
「えええっ!」
ミランダは我ながら悲壮な悲鳴をあげた。〈アスタ〉が更に申し訳無さそうな顔をする。
『今日はミランダは休日なのだと何度も伝えたのだけれど、今日しか体があかないとかで。レイディスが、ミランダに聞いてもらえないかと言うのよ。ほら、予算編成が近いしねえ……』
「うう……」
『待ち合わせは何時なの?』
「……うう」
〈アスタ〉に、シグルドと会うのだということまで伝えてはいないのだが、ミランダのおめかしぶりを見て、誰かと待ち合わせをしているのだという程度の推測はできたらしい。ミランダはがくりと頭をたれた。予算編成の近いこの時期、医局としては、元老院の常連であり古株でもありかなりの発言力を有するグムヌス議員の機嫌を損ねるわけにはいかない。その事情はわかり過ぎるほどわかっている。医局の責任者であるレイディスは、気っぷのいい姉御肌の女性で、患者の我が儘には毅然とした対応を取ることが多いが、それにしても今回は相手と時期が悪い。
「……十時」
あきらめて答えると、〈アスタ〉がホッとした声を上げた。
『八時半には来たいそうよ。グムヌス議員はおしゃべり好きな方だけれど、三十分もあれば充分じゃないかしら。……お願いできない……?』
仕方ない。ミランダはため息を隠した。
グムヌス氏に気に入られてしまったのが運の尽きだったのだ。
「……わかりました。行きます」
答えると〈アスタ〉は喜んだ。とても嬉しそうに、助かったわと言う感情を前面に出した。彼女には人間と変わらない感情があるのではないかと、思ってしまうのはこういうときだ。
『ごめんなさいね。この埋め合わせはきっとするわ』
「期待してる」
そう答えてミランダはワンピースを脱いだ。【魔女ビル】から【国境】まではトロッコと動道を駆使すれば十五分もかからずに着くし、【国境】から鉄道の駅までは、いざとなれば(今日は私事なので気は引けるが)箒に乗れば数分で着く。着替えと身支度の時間も入れれば三十分。グムヌス氏がどんなに長っ尻でも、大けがや重篤な病気というわけではないのだし、全身の凝りをほぐして血行を良くして疲労を改善させるだけだから、〈アスタ〉の言うとおり三十分もあれば充分だ。間に合う、絶対間に合う。遅刻なんてあり得ない。ミランダはそれでも、髪をほどくのはやめにした。今日は大事な用があるのだと、グムヌス氏にアピールできるかもしれない。
――ところが。
それが裏目に出るのだった。
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